石田三成の実像2758 白峰旬氏「新視点関ヶ原合戦」30 大垣城攻防戦に関する保科正光の戦局シミュレーション」10 佐竹氏の内部事情(森木悠介氏の見解)

白峰旬氏の「新視点関ヶ原合戦」(平凡社)の、 第四章「大垣城攻防戦に関する保科正光の戦局シミュレーション」の中で、慶長5年8月29日付の保科正光書状が取り上げられており、その内容について大事だと思われる点について触れています。
 書状の中に、「佐竹義宣・上杉景勝も少しは手出しをするのではないか」という記述があります。
 この記述について、白峰氏の同書では、次のように解説されています。
 「徳川家家臣である保科正光が、佐竹氏・上杉氏による関東出兵の可能性をまったく否定していなかった、という点で、こうした認識を持っていたことには注意したい」と。
 このあたり、佐竹氏・上杉氏の動向は流動的で、家康方も彼らがどう動くのか読めない状況でした。結局、佐竹氏・上杉氏は関東に攻め込まなかったわけですが、佐竹氏に関しては、森木悠介氏の「コラム 佐竹氏と関ヶ原合戦」(谷口央氏編『関ヶ原合戦の深層』【高志書院】所収)の中で、次のように指摘されています。
 「義宣は、内部の意思統一がなされていない状態で上杉氏と密約を交わしてしまったのだろう」
 「蘆名盛重などの佐竹氏内部の徳川派が盛り返し、その意見に押し切られた結果、上杉氏と対峙する伊達氏に音信するという義宣のぶれに繋がったのだろう。上杉氏と協定を結んだのが8月中旬、伊達氏に音信を行ったのが9月15日の関ヶ原合戦の前後と、ひと月の間で意思が揺らいだところを見ると、義宣も西軍挙兵に懐疑的だったのだろうか」などと。
 三成方がこういう佐竹氏の内部事情をどれだけわかっていたかが問題ですが、佐竹氏の取次だった三成が、お家事情を全然わかっていなかったとは思えません。蘆名氏が豊臣政権に好意的でないというのも、三成はその経緯を知っていただけに、理解していたのではないでしょうか。しかし、義宣なら自分たちの期待にこたえてくれるのではないかという思いも持っていたはずです。上杉氏・佐竹氏が全く関東に攻め込まなかったというのは、三成方にとって大きな衝撃だったに違いありません。家康が西上して美濃赤坂に陣取ったことによって、三成方は上杉氏・佐竹氏が動いてくれなかったか、あるいは動いてくれたとしても小規模だったのではないか、少なくとも効を奏していないということを感じ取ったはずです。

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