石田三成の実像2757 中井俊一郎氏の講演「三成研究最前線 主に三成最期の500日に関して」2 七将襲撃事件の論点

DSCN7626.JPG2日に米原市観音寺の三成ブックカフェで行われた中井俊一郎氏の講演「三成研究最前線 主に三成最期の500日に関して」の中で、慶長4年閏3月に起こった七将による石田三成襲撃事件についての論点についても述べられていました。
 そもそも、七将の武装襲撃はなく、集団訴訟であったという見解が水野伍貴氏や白峰旬氏によって出されていること、確かに一次史料からは武将襲撃の事実はわからないこと、光成準治氏の「関ヶ原前夜」に書かれているように「厚狭毛利家文書」からは三成が軍事反撃を企図していたことがうかがえるものの、白峰氏は本文書の年月比定が誤っている可能性を指摘していること。
 これらの点については、拙ブログでも、白峰氏の論考「豊臣七将襲撃事件(慶長4年閏3月)は『武装襲撃事件』ではなく単なる『訴訟騒動』であるーフィクションとしての豊臣七将襲撃事件」を紹介し、それらの点について取り上げました。また白峰氏の論考「慶長4年閏3月の反石田三成訴訟騒動に関連する毛利輝元書状(『厚狭毛利家文書』)の解釈について」の中で、光成氏の同書で取り上げられている6通の書状について、反石田三成訴訟騒動に関するものは2通だけで、他は翌年の上杉攻め及びその後の三成挙兵後のものだと指摘されていますが、そのことについても拙ブログで取り上げました。
 また講演では、七将のメンバーについて「一般に加藤清正、黒田長政、浅野長慶、蜂須賀一茂、藤堂高虎、福島正則、細川忠興と言われている」が、「朝鮮の役が原因であれば、藤堂以下3名は無関係である」こと、この騒動に関する理由としては、「事件後、蔚山籠城戦処分が撤回されているので、これが原因の一端になっていることは間違いないが、七将の顔ぶれからはこれが主要要因とは言い切れない」こと、「事件にはこれまでの政争が影響している可能性がある」ことも述べられていました。
 そもそも七将ということが確定しているわけではなく、諸書によってメンバーが違っており、実際は十将ぐらいかもしれないという見解も示されていました。この点については、白峰氏の「新視点関ヶ原合戦」(平凡社)の中で、次のように記されています。
 「宮本義己『豊臣政権崩壊の謎』では、七将のメンバー構成について、『関原始末記』『徳川実紀』では、福島正則・池田照政(輝政)・黒田長政・加藤清正・細川忠興・浅野長慶(幸長)・加藤茂勝(嘉明)としているのに対して、『慶長年中卜斎記』では、福島正則・黒田長政・加藤清正・細川忠興・浅野長慶(幸長)・加藤茂勝(嘉明)・脇坂安治としている」と。
 また中井氏の講演で挙げられていたメンバーは、「(慶長5年)閏3月5日付徳川家康書状」(『譜牒餘録』)の宛所の人物であることも白峰氏の同書に記されています。

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