石田三成の実像2759 中井俊一郎氏の講演「三成研究最前線 主に三成最期の500日に関して」3 七将襲撃事件の論点2

2日に米原市観音寺の三成ブックカフェで行われた中井俊一郎氏の講演「三成研究最前線 主に三成最期の500日に関して」の中で、慶長4年閏3月に起こった七将による石田三成襲撃事件についての論点についても述べられていましたが、その続きです。
 「三成は伏見のどこに行ったのか?」ということに関して、小説やドラマでは三成は家康の屋敷に逃げ込んだという描き方がされているものの、実際は伏見城内の治部少輔丸の自分の屋敷だったという笠谷和比古氏の見解が今や受け入れられていることにも触れられていました。
 なお、講演後の質疑応答、意見交換の場で、三成は大坂から伏見に逃げたということも通説になっているものの、一次史料の検討からこの騒動は三成が伏見に戻ってから起こったと白峰氏が指摘されていることを私の方から紹介しました。
 また、講演会では「三成と七将の仲介に入ったのは、本当に家康か?」という論点も出されていました。この点に関しても、後で私の方から白峰氏の見解を紹介しました。すなわち、一次史料には、第一段階で北政所が仲裁したものの決着せず、第二段階で毛利輝元が調停して、佐和山に退くことになったとは書かれているものの、家康が仲裁を行ったとは書かれていないことなど。
 「事件のあと三成は本当に隠遁したのか?」という論点に関しても、一時的に佐和山に謹慎しただけで、将来奉行職に復帰する道は閉ざされていなかったこと、そうでなければ、翌年三成が挙兵した後、すぐに奉行職に復帰することはできなかったという白峰氏の見解を、後で私の方から補足説明させていたただきました。
 講演会では、秀吉死後の政局を家康と三成の対立で説明するのは間違いであり、実際は家康派、前田派、三成(毛利)派という三派鼎立の政治状況だったという水野伍貴氏の見解が紹介され、それに賛同されていました。もっとも、前田派は「人間関係に基づく緩いつながり」であり、水野氏は「前田系」と呼んでおられることも述べられていました。秀吉の死直後の慶長3年8月に、三成ら奉行衆は毛利輝元と対家康同盟を結び、それを主導したのは三成であり、三成=毛利派が生まれたこと、慶長4年1月に起こった家康縁辺問題では、家康VS前田派・三成派という対立関係が生まれたこと、慶長4年閏3月の前田利家の死後には、前田系武将の多くが家康派に参加したため、対立構造が変化し、奉行衆が孤立したこと、その過程で七将襲撃事件(実際は訴訟騒動)が起こり、三成が佐和山に移ることで事件が決着し、奉行衆と家康が和解したことなとが述べられていました。
 こういう流れで政局の推移を捉えると、確かにわかりやすいと言えます。

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