石田三成の実像2762 白峰旬氏「新視点関ヶ原合戦」32 大垣城攻防戦に関する保科正光の戦局シミュレーション」12 敵の城が八つ、明け渡されたという記述

白峰旬氏の「新視点関ヶ原合戦」(平凡社)の、 第四章「大垣城攻防戦に関する保科正光の戦局シミュレーション」の中で、慶長5年8月29日付の、江戸にいる家臣の黒河内長三に宛てた保科正光書状が取り上げられていますが、その内容の続きです。
 この書状について、次のような記載があります(現代語訳)。
 「去る(8月)22日・23日、合渡(川)の渡り、萩原の渡りにおいて、両日に両度の合戦をおこない、いずれも味方が大勝した。両度(の合戦)にて5000程を討ち捕えた。(中略)そのうえ、美濃・尾張にある敵の城が一度に八つ、明け渡された」と。
 この記述について、白峰氏の同書では、次のように解説されています。
 「岐阜城攻城戦に関係する戦いを指す内容であり、家康方の軍勢の勝利を報じたものである。ただし、『尾州表』としているが、実際には美濃・尾張両国に関係する戦いであった。また、敵5000人程を討ち捕えた、とするのは人数の点で誇張があるかも知れないので、この点は検討する必要がある」
 「犬山城・岐阜城以外に石田・毛利方の六つの城が明け渡されたということになる。このことについて、数の点で誇張があるのかどうか、8月末の時点における美濃・尾張両国内での諸城の動向について、今後、具体的に検討する必要があろう」と。
岐阜城攻撃の別動隊の黒田長政・藤堂高虎らが、合渡川を守っていた三成方軍勢を攻めて破りますが、この時三成は佐渡(さわたり)に陣を置いていました。三成はその敗報を聴いて、急いで大垣城に戻っています。佐渡の三成陣跡については、オンライン三成会編「三成伝説」(サンライズ出版)の「美濃・大垣を訪ねる」の中で紹介していますが、陣跡を示すものはなく、そのあたりに立っている常夜燈の写真を掲載しています。
 「三成伝説」には、長松城址の碑も紹介していますが、城主の武光忠棟は三成ら豊臣政権側に付いており、三成の家臣の舞兵庫などと福束城の救援に赴きますが、福束城は8月16日に陥落します。長松城へも家康方軍勢が攻めてきたため、武光は24日に城を捨てて脱出します。保科書状の「敵の城が一度に八つ、明け渡された」という記述の中には、福束城や長松城なども含まれている可能性もありますが、確かに実際「八つ」あったのか、捕らえた敵の人数も含めて誇張があったかなかったのか、今後の検討課題だと思われます。
 

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