石田三成の実像2769 白峰旬氏「新視点関ヶ原合戦」34 「大垣城攻防戦に関する保科正光の戦局シミュレーション」14 籠城二万程という記述

 白峰旬氏の「新視点関ヶ原合戦」(平凡社)の、 第四章「大垣城攻防戦に関する保科正光の戦局シミュレーション」の中で、慶長5年8月29日付で、家臣の松沢喜右衛門尉・丸山半右衛門尉・吉川織部佑に宛てた保科正光書状が取り上げられていますが、その内容の続きです。
 この書状について、次のような記載があります(現代語訳)。
「大垣(城)に籠っている衆は、石田三成、小早川秀秋、宇喜多秀家、小西行長、島津義弘、これらの衆であり、二万程にて籠っている、とのことである。(大垣城を)取り巻いている軍勢は八万の御着到である」と。
 白峰氏の同書では、この記述を、同じ8月29日付で、家臣の黒河内長三に宛てた保科正光書状の記載内容と比較されていますが、籠城している武将名は同じながら、秀頼の馬廻衆については記されていないこと、籠城の人数は「二万」と「二万余人」と微妙な違いがあること、攻城側の人数は「八万人」と「七万人」と一万の違いがあることが指摘され、「単なる誤記、あるいは記憶違いによるものであろうか」と推測されています。さらに次のような指摘もされています。
 「大垣城に籠城している軍勢を二万人程としていることから、その後、9月14日夜に大垣城から石田三成などの諸将が関ヶ原(山中)へ移動行軍した際の軍勢の人数が二万人未満であったことは確実である(大垣城には熊谷直盛、垣見一直などの諸将を大垣城在番として残したので、二万人すべてを率いて大垣城から出陣したわけではない)」と。
 関ヶ原(山中)で戦った三成方軍勢の数は、通説よりかなり少なかったのではないか、そのこともあって、大谷吉継隊が家康方軍勢と小早川秀秋隊の挟撃によって壊滅した後、山中に布陣していた三成方軍勢が、大軍の家康方軍勢に攻め込まれて二時間ぐらいの間に崩れ去ったのではないかということが白峰氏によってかねてより指摘されていますが、そのことが保科書状の記載内容から裏付けられます。
 実際、大垣城に籠っていた三成方軍勢が二万人程、包囲している家康方軍勢が七万ないし八万人であったかどうかについては、他の史料からの裏付けが必要だと思いますが、この時点で兵力差にかなりの差があったのは事実でしょう。それだから、三成らは伊勢方面、北陸方面に展開していた軍勢を美濃方面に呼び出したわけです。彼らが到着することによって、また情勢は変わってくるわけですが、大垣城自体二万人を支えるには小城で無理があり、三成方軍勢が大垣城を出たのは、そのこととも関連しているのではないかという白峰氏の指摘は、傾聴に値するものだと思いますし、そのことも含めて、さらなる検証を通じて、関ヶ原の戦いの実態解明を続けてほしいと願っています。

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