石田三成の実像2797 高橋陽介氏の書評報告「本多隆成氏『「小山評定」再々論 家康の宇都宮在陣説を中心に』」5 「小山における談合・評定」に関する議論2

  高橋陽介氏の書評報告「本多隆成氏『「小山評定」再々論 家康の宇都宮在陣説を中心に』」(『地方史研究』398号、2019年)の中で、通説通り小山評定があったとする本多氏の見解と、小山評定は創作だとする白峰旬氏の見解の相違について、「2015年本多論文以降、その論点はおおむね二つにしぼられている」として、まず一点目として白峰氏の「福島正則の7月19日西上説」に関する議論、二点目として「小山における談合・評定」に関する議論が取り上げられ、その中で、7月29日付大関資増宛浅野長慶書状の「上方之儀、各被申談、仕置ニ付、会津表御働、御延引ニ候、上辺之儀、弥被聞召届上、様子可被仰出旨、内府様被仰候」という文言についての解釈が問題になっていました(これについては前述しました)。
 この部分について、高橋氏は次のような疑問点を挙げられています。
 「白峰氏の指摘のとおり、『申談』の主語は諸将ととるべきではないだろうか。かりに『被』が家康にたいする敬語であるとしても、『家康様が申される』という言い方はありえない。『家康様がおおせられる』でなければおかしい。高橋明氏による翻刻の『、』につられているのではないか。文章がそこで切れていなければ、それ以下の解釈は逆になる。つまり、『上方の儀おのおのと申し談じられ、仕置きにつき、会津表御働き延引に候(家康様は上方のことを諸将と相談して、方針をきめ、会津攻めを延期した)』と切れずに、『上方の儀おのおの申し談じらるる仕置きにつき、会津表御働き延引に候(上方のことを諸将が相談した方針により、家康様は会津攻めを延期した)』となる。この場合、諸将の談合・評定によって会津攻めの延期がきまったという本多氏の主張にそうことになる」と。
 要するに、高橋氏は「申談」の主語を白峰氏の解釈通り、「諸将」としながらも、全体の文脈から、「上方のことを諸将が相談した」ということになり、本多氏の見解通り、小山で諸将の談合・評定があったというふうに捉えられているわけです。確かに、この書状だけから見れば、小山での談合・評定があったことになりますが、これだけでは決定打に欠ける気がします。
 本多氏は、その論拠としてもう1点、8月27日付の宮部長煕書上の記述が挙げられていますが、白峰氏の見解では、「小山において『家康の下知』によって『上方の者(豊臣系諸将) は先手として西上するように』と命じられたのであり、小山で評定があったとは全く書かれていない」こと、この書上は後年のものであり、「寛永10年の時点では、この話の真偽を検証するための証人が存在せず、話を捏造できる可能性はあるだろう」こと、「この史料内容で疑問に思われる点は、諸大名を小山に招集した御触が、一次史料(触書)として一つも伝存していない、という点である」ことなどが指摘されています。やはり、小山評定があったとすれば、それを決定付ける一次史料の発掘が何より望まれます。少なくとも、小山評定の席上、福島正則がいの一番に「三成討つべし」と 言ったというようなことは一次史料に一切記載がなく、後に作られたフィクションであったことは確実です。
 

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