京都探訪311 勝竜寺城の西側の沼田丸跡・細川藤孝夫人の麝香は沼田氏の出身・ガラシャの自害の翌年キリスト教入信・ガラシャの最期の様子は侍女の後年の記憶に基づくもの

DSCN8356.JPGDSCN8361.JPG 勝竜寺城公園の西側の駐車場のあたりは、沼田丸があったところ(本丸の西側にあった曲輪になります)で、細川藤孝の妻の麝香(じゃこう)が沼田氏の出身であったところから、名付けられました。藤孝と麝香との間に生まれたのが忠興ですが、忠興夫人のガラシャが自害した翌年、麝香もキリシタンとなり、マリアという洗礼名を与えられます。麝香の入信は、ガラシャの自害の影響と云われています。
 沼田丸跡には井戸が残っていますが、藤孝が築いたものです。井戸のそばに、勝竜寺城公園と同様、ガラシャおもかげの水があり、飲むことができます。
 ガラシャ夫人が自害したのは、大坂玉造の細川屋敷においてでしたが(現在、大阪カテドラル聖マリア大聖堂が建つところ)、関ヶ原の戦いの二ヶ月前、ガラシャ(玉子)が豊臣公儀方の人質になるのを拒んで自害しました。もっとも、ガラシャの自害の様子はよく小説やドラマなどで描かれていますが、家臣の小笠原に槍で胸を突かせたという描き方が一般的です。もっとも、その様子を実際に見た者は誰もなく、多分に潤色された面があることは否定できません。
 拙ブログで取り上げたことがありますが、ガラシャの最期の数日間の様子は、ガラシャに仕えた侍女の霜が、事件から48年後に語った内容に基づくものであることが、金子拓氏の「記憶の歴史学」(講談社選書メチエ)で明らかにされています。半世紀近くだった時点での発言ですから、そこに記憶間違いがあるかもしれませんし、第一、霜は直接、ガラシャが自害した時の様子は目にしていず、その前に屋敷から脱出しています。しかも、「玉子が自害した時機は自らの主体的な判断によるものではなく、稲富の寝返りをきっかけに小笠原からうながされたものである」ことも霜の発言の中で述べられています。稲富も細川氏の家臣であり、屋敷の表門で敵を防いでいる間に、ガラシャが自害することになっていましたが、稲富の裏切りで、状況が変わったわけです。この「霜女覚書」では、三成が人質交渉をしてきたと述べられていますが、関ヶ原の戦いを「石田治部少の乱」と捉えていることでもわかるように、すべてが三成の仕業とされていた江戸時代のことですから、信は置けません。前にも述べたように、三成がこの時期に、大坂城に来ていたとは考えられません。

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