石田三成の実像2798 中井俊一郎氏の講演「書状から読み解く三成の人間力」2 真田信幸宛書状1

 昨年11月3日に三成の生まれ故郷である長浜市石田町で行われた「三成祭」の際の中井俊一郎氏による講演会「書状から読み解く三成の人間力」で、真田信幸宛書状三通が取り上げられていましたが、まず次の書状について解説されていました。
 「(大意訳)書状拝見、承りました。このところ御城番にて宿へ帰ることもなく、御意を得ることもできませんでした。御城番も近日中には空きますので、一夕積もる話をしましょう。もし急用あれば、糊付けの書状にて承ります。最近はいろいろあり、お話を聞くこともできません
」と。
 宛名は「さいつ様」ですが、真田伊豆守信幸のことであり、信幸宛書状の多くは慶長3年 頃のものだと推定され、「真田信幸との間には細かな気配りが見られる私信が多い。また面拝=face to faceを重視している」こと、三成は「返事を必ず書く」、と説明されていました。 この書状は、中井氏の「石田三成からの手紙」(サンライズ出版)の第8章「【交友】立場を越えた友情ー真田信幸宛」の中でも、紹介されています。
 書状の中の「御城番」とあるのは、伏見城内の治部少輔丸に詰めて、奉行としての任務に当たっていたことを指すのでしょう。城外の三成上屋敷は、治部少輔丸の南に当たる、現在の乃木神社のすぐ南にありました。乃木神社がある場所には、当時は家康上屋敷がありましたから、家康上屋敷と三成上屋敷は境を接していたわけです。家康上屋敷のすぐ西側に小西行長の屋敷、その東隣が真田信幸の屋敷になりますから、お互いの屋敷は近い距離にあり、三成が「御城番」でない時には、お互いによく行き来して話し合っていたのだと思われます。
 この書状が慶長3年のものとするなら、秀吉が亡くなった年であり、三成は多忙を極めていました。1月に上杉景勝は越後から会津に転封になり、三成も会津に向かい、直江兼続と連名で禁制を発しています。5月に戻りますが、今度は小早川秀秋が筑前・筑後から越前北庄に転封になったのに伴い、三成が旧小早川領の代官となって、5月29日には京を発して、九州に向かいます。上方に戻ってきたのは7月前半であり、秀吉の病状の悪化に伴って急遽上方に帰ってきたものと思われます。その後は、秀吉の死後のことなどに忙殺されますから、信幸とゆっくりしゃべっている余裕はないと思われ、また書状からは秀吉が重篤であるとの切迫感は感じられませんから、この書状が慶長3年のものだとすれば、5月に書かれたものでしょうか。「積もる話」とありますから、二人はしばらく会っていなかったことがうかがえます。この書状が記されたのは、慶長3年より前のものとも考えられますし、この書状の年月比定については、さらなる検討が必要だと思われます。
 「糊付けの書状」は、三成が考え出したものだということが、「読本 石田三成」(石田三成公事績顕彰会)に記されていますが、これも実際、そうなのかは検証する必要があります。

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