石田三成の実像2799 中西豪氏・白峰旬氏の「最新研究 江上八院の戦い」3 立花宗茂発給の感状に関する白峰氏の考察3

中西豪氏・白峰旬氏の共著「最新研究 江上八院の戦い」(日本史史料研究会)の、白峰氏が担当されている「江上八院の戦いについての立花宗茂発給の感状と軍忠一見状」の中で、立花宗茂が12月2日付で発給した感状のうち、着到文言がある感状(残存する30例の感状のうち15例)の一例が挙げられ、次のように現代語訳されています。
 「この度(たび)の江上表における一戦の時に、小野和泉守が粉骨に励んだことにより、二か所の被疵(負傷)をしたのは忠義であり、誠に比類がない。特に、小野和泉守の与力・被官・中間数十人の手負い(負傷)の衆と戦死の衆の着到を銘々披見して感じ入っている。(後略)」と。
 感状に「着到」という文言がありますが、この場合の「着到」という言葉の意味について、白峰氏の同書で、次のように指摘されています。  
 「江上八院の戦いの際に、手負いをした者、戦死した者のリスト(それぞれ人名と被疵〔手負い〕・戦死の種別が記されていたと考えられる)を指すと考えられる。その意味では、この場合の『着到』とは、合戦前に提出される着到状というよりは、合戦後に上申された軍忠状に近いものであったということになる」と。
 また感状に記されている「与力・被官・中間」は、「家臣の麾下」に属する者たちで、「立花宗茂から見ると又家来〔陪臣〕にな」り、「それぞれの立花家家臣が個別に麾下の軍勢を引き連れて戦ったことを明確に示している」ということ、さらに「感状に着到文言がある事例は立花家中でも大身家臣にほぼ限定されると見なしてよかろう」ということも指摘されています。
 家臣・又家臣が戦いに参加したのは、立花家独自のことでなく、いろいろな家中でも同様のことが行われていたと考えるのが、自然です。
 三成が家臣に発給した感状は残っていませんが、出したのかどうかははっきりしません。三成が佐和山城主になったのは北条攻めの後ですから、国内ではその後、戦いらしい戦いは起こっていません。奥州で乱が起こり、三成も参陣していますが、感状を出したとするならその折か、その後、文禄の役で奉行として渡海した時、碧蹄館の戦い、幸州山城の戦い、晋州城の戦いに参加していますから、その折に感状を出した可能性もあります。また三成の家臣にしても、ある程度家臣の名前はわかっていますが、わからない者も少なくなく、ましてや又家臣ともなると、全くわからないのではないでしょうか。関ヶ原の戦いでは、三成の家臣だけではなく、多くの又家臣が参加したはずですが、その実情はほとんどわからないままです。

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