石田三成の実像2813  中西豪氏・白峰旬氏の「最新研究 江上八院の戦い」10 実戦状況に関する白峰氏の考察1 合戦前日は状況を楽観視 番組 「英雄たちの選択・立花宗茂」5

  中西豪氏・白峰旬氏の共著「最新研究 江上八院の戦い」(日本史史料研究会)の、白峰氏が担当されている「第四章 江上八院の戦いの実戦状況」の中で、立花勢の小野和泉守、立花吉左衛門、十時源兵衛が後日申し上げた「覚」に基づいて、この戦いの戦闘状況が復元されています。
 まず合戦前日(10月19日)の状況について、「小野和泉が申し上げた覚」によって、「夕方には、小野和泉が敵状の視察(直接目視)をして敵の兵力数の見積もりをした」こと、「日が暮れると戦わずに撤退した」こと、「小野和泉は先手の安東五郎右衛門に対して撤退の指示を出しているので、立花宗茂が柳川城に在城して出撃しなかったこの戦いでは、小野和泉が実質的な司令塔の役割を果たしていたと考えられる」こと、「夜は、立花勢において、敵の兵力数について討議した」が、「全体的に状況を楽観視している」ことなどが明らかにされています。
 「状況を楽観視している」ということに関しては、新田平右衛門、立花弾正が「肥前衆(龍造寺・鍋島勢)との戦いには、敵が大勢であることは、今に始まったことではない。(中略)味方の兵力に対して敵の兵力は十倍しないことはなかったが、八幡神も照覧され、一度も不覚を取ったことはなかった。この度も、そうであろう」と言ったことや、小野和泉が「明日(10月20日)に一戦を遂げるならば、まさか、し損じないだろう」と言ったことなどが、「小野和泉が申し上げた覚」に記されています。また立花側が加藤清正に使者を遣わし、そのことに期待をかけていることも述べられています。
 立花宗茂は、慶長の役の際、加藤清正が籠る蔚山城の戦いに救援に行ったこともあり、二人の関係は悪くなかったと思われます。立花勢が強さを誇っていたことが、江上八院の戦いで逆に裏目に出た気がします。文禄の役でも、碧蹄館の戦いで勝利したのは、小早川隆景と立花宗茂の活躍がありましたし、関ヶ原の戦いの際の大津城攻めの際にも奮戦して、北政所や淀殿らによる和平交渉もあり、開城させました。
 この時の立花勢の活躍については、NHKの番組「英雄たちの選択 天下無双の名将・立花宗茂」でも紹介されていました。長等山から一キロ程離れた大津城を大砲を撃ち放って効果を上げたこと、大筒(おおづつ)を使った攻城戦のはこの戦いが初めてだったこと。また宗茂は三成の求めに応じて上洛したが、兵1300の要請に対して、それをはるかに超える4000の兵を引き連れたが、それは「勝敗の如何に関わらず、秀吉公の恩義に報いるため」だと宗茂が述べたこと、8月22日に美濃・大垣に出陣したものの、大津城主・京極高次の裏切りに遭い、三成の要請に応じて大津城を攻めることになったことにも触れられていました。もっとも、番組では関ヶ原の戦いは家康と三成の対立という構図で捉えられていたために、三成の要請と説明されていましたが、実際指揮に当たっていたのは三成だったとしても、白峰氏の見解によれば、三成らは豊臣公儀軍で、大津城攻撃を決めたのは三成だけの意思ではありませんでした。大坂城の毛利輝元も、大津城攻めに毛利元康軍を派遣しています。

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