石田三成の実像2810 中井俊一郎氏の講演「書状から読み解く三成の人間力」8 慶長4年閏3月9日付宛名不明の大谷吉継書状

昨年11月3日に三成の生まれ故郷である長浜市石田町で行われた「三成祭」の際の中井俊一郎氏による講演会「書状から読み解く三成の人間力」で、慶長4年(1599)閏3月9日付宛名不明の大谷吉継書状が取り上げられ、次のように現代語訳されています。
「(大意訳)昨日は度々御使者にお出でいただき、ありがとうございます。今度の事では、種々御苦労いただいたおかげで、無事に済み、上下の大慶これにすぐるものはありません。さりとて御尤もの扱いに心を下されたことについては申し上げる言葉もありません。まず参上してお話したいところですが、御存知の状態なので伺うことができません。いずれお会いしたうえで、積もる話をしましょう」と。
 この書状について、「白峰氏は本書状をいわゆる七将襲撃事件収束後に、吉継が三成に宛てたものと推測。もしこの書状が三成宛だとすると吉継は通説より三成にドライな感情を持っていたのか?」と解説されていました。
 「いわゆる七将襲撃事件」とあるのは、白峰氏は襲撃事件ではなく、訴訟騒動だったと指摘されているからです。この書状については、拙ブログでも以前に紹介しましたが、白峰氏の「新視点 関ヶ原合戦」(平凡社)の「第一章 豊臣七将襲撃事件はフィクションである」の「補論 大谷吉継書状の分析」で詳しく論じられています。
 「さりとて御尤もの扱いに心を下されたことについては申し上げる言葉もありません」という部分については、白峰氏の同書には、「(この問題に関して)道理にかなった調停(仲裁)であったが、(あなたの)御心労については申し上げようもない」と現代語訳されています。「御心尽」という言葉の意味は、三成の「御心労」ということだと指摘されています。また当時、三成も吉継も伏見にいたということも明らかにされていますが、吉継は今は会いにいけないと言っているわけです。三成は調停の結果、訴訟騒動の責任を一人取る形で引退するということになったという事情がありますから、直接会うのは憚られたのでしょう。「いずれお会いしたうえで、積もる話をしましょう」と言っているので、二人の関係は悪くなったとは思えませんし、騒動のあった後だけに、今は目立ったことは避けようとの配慮が働いていたとも考えられます。この部分について、白峰氏は「石田三成の佐和山隠居は一時的な謹慎であって、将来的には政治的復権の余地を十分残したものと、大谷吉継は理解していたことになる」と指摘されています。佐和山で謹慎中の三成に、吉継が会いに行くのは難しかったでしようから、謹慎を解かれて伏見に戻ってきた時に会おうということだと思われるので、白峰氏の指摘は妥当なものだと考えます。吉継が「ドライ」であったというより、会いたくても今は会えないと考えるのが自然だという気がします。
 

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