石田三成の実像2812 中井俊一郎氏の講演「書状から読み解く三成の人間力」9 慶長3年5月付の大音新介宛の三成書状 部下への気配り

昨年11月3日に三成の生まれ故郷である長浜市石田町で行われた「三成祭」の際の中井俊一郎氏による講演会「書状から読み解く三成の人間力」で、慶長3年(1600)5月付の三成家臣の大音新介宛の三成書状が取り上げられ、次のように現代語訳されています。
「(大意訳)(秀吉殿は)我等には筑前筑後(福岡県南西部)をくだされ、九州の物主にしてくださるとの内意でした。しかしそのようなことをしては、(京近くの要衝である)佐和山に置ける人もなく、身近にて用事を申し付けられる人も少なくなるので、我らはこのまま(佐和山にとどまること)になります。(中略)筑前筑後は蔵入になります。また金吾殿(小早川秀秋)は越前に替わり、我らにその地の代官を命じられました。近々筑前へ行きますので、その心得でいてください。このことを父と妻にも伝えます」と。
 この書状について、部下への気配りが感じられ、三成が小早川の領地であった筑前筑後への転封を断り、その地の代官になったことを両親より先に部下に知らせている点で、いかに部下を大切にしているかがわかると解説されていました。この書状は、中井氏の「石田三成からの手紙」(サンライズ出版)や「5通の直筆書状から読み解く三成の『人間力』」(『週刊朝日MOOK 歴史道 その漢(おとこ)、石田三成の真実』所収)でも取り上げられ、詳しく論じられています。
 小早川秀秋の転封は、三成の讒言によるものだということが従来から云われていますが、冤罪であったことが明らかになっています。中井氏の両書では、その点について詳述されています。すなわち、小早川が転封の原因となったのは、蔚山(ウルサン)の戦いで大将にあるまじき振る舞いをしたのがきっかけで、そこに三成の讒言があったとされてきたものの、「蔚山の戦いは慶長3年(1598)1月4日に起こっており、秀秋転封の話が起こったのはそれより前の慶長2年12月3日であるから日付が合わない。この辺りは全くの俗説であろう」(「石田三成からの手紙」)と指摘されています。
 秀秋転封の原因については、次のように述べられています。
 「小早川領筑前は要港・博多を有し、朝鮮の役推進の上でも重要な場所である。英傑・隆景の死後、この地を年若い秀秋に任すことに秀吉が不安を覚えたとしても無理はない」(「5通の直筆書状から読み解く三成の『人間力』」)と。
 秀秋転封の話が起こった慶長2年には、秀秋は16歳でした。「秀吉が不安を覚えた」ことは十分に考えられます。
 三成が所領加増を断り、国造りに関わる道を選んだという「重要な知らせを身内よりも、まず重要な家臣に伝え」たことについて、「『私』より『公』を重んじたこと」になるが、「このような事情を家臣に打ち明けなければならなかった三成の苦衷もある」と中井氏は指摘されています。

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