旅行記215 オンライン三成会の人々との徳島・淡路島旅行10 洲本城4 東の丸・東二の門・武者溜・東一の門 

DSCN8805.JPGDSCN8808.JPG 洲本城の本丸の東側に東の丸があり、そこを東に進むと、東二の門があり、虎口の石垣が残っています。
 DSCN8809.JPGDSCN8811.JPG そこを通り抜けると、広大な武者溜が広がっています。言葉通り、武士が集合する場所です。その東南に東一の門があり、下に通じるようになっています。
 洲本城主であった脇坂安治は、文禄の役の際は、最初は対馬の船奉行に任じられていましたが、朝鮮侵略の軍勢に加わります。脇坂の水軍は、李舜臣の水軍によって、文禄元年7月に閑山島(ハンサンド)沖におびき出され、壊滅的な打撃を受けます。しかし、その後は、李舜臣の侵攻をいくたびも防ぎました。秀吉は、脇坂を洲本城主にして水軍としての活躍にも期待したものと思われますが、脇坂は充分とは云えないまでも、それなりの働きを果たしたと云えます。
 文禄2年6月、脇坂は諸将と共に晋州城を陥落させています。この時は陸軍として戦っています。脇坂は朝鮮半島で水陸両面での働きをしているわけです。脇坂は賤ヶ岳の戦いで先懸衆として勝利に貢献し、七本槍の一人と呼ばれた人物ですから、秀吉に重宝がられ、淡路島の洲本という重要な地を与えられたわけです。脇坂もその期待に応えようとしていたことが朝鮮の役の際の働きでもわかります。しかし、関ヶ原の戦いでは、三成・毛利輝元ら豊臣公儀軍に属しながらも、その一方で、家康にもよしみを通じており、戦いが始まると三成方を裏切っています。通説では、昼頃、小早川秀秋が裏切った後、脇坂、朽木などが裏切ったとされてきましたが、白峰旬氏によれば、小早川秀秋は戦いの最初の段階で裏切ったとされていますから、脇坂も最初から裏切ったのか、あるいは途中から裏切ったのか、それを明らかにすることが今後検討すべき課題と云えます。

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