石田三成の実像2829 中西豪氏・白峰旬氏「最新研究 江上八院の戦い」18 実戦状況に関する白峰氏の考察9  敵は飛道具で重装備・関ヶ原の戦いと比較すると

 中西豪氏・白峰旬氏の共著「最新研究 江上八院の戦い」(日本史史料研究会)の、白峰氏が担当されている「第四章 江上八院の戦いの実戦状況」の中で、立花勢の小野和泉守、立花吉左衛門、十時源兵衛が後日申し上げた「覚」に基づいて、この戦いの戦闘状況が復元されていますが、そのうち「十時源兵衛が申し上げた覚」の内容についての次のように解説されています。
 「立花宗茂の命により、十時源兵衛が江上へ来た時点では、小野和泉はすでに深手を負い、20~30人にて引き返していた、ということなので、戦いの最後の段階で十時源兵衛が戦場の江上へ来たことになる。よって、十時源兵衛は戦力としてではなく、最後の見届け役として来たということになる」と。
 また「『最早、敵は堀を隔てて備え、飛道具を隙間なく構えている』と立花吉左衛門が述べたことからすると、敵はよほど豊富に飛道具(弓・鉄炮)を持っていたのであろう。立花吉左衛門が『最早、敵は堀を隔てて備え、飛道具を隙間なく構えている。この方に弓・鉄炮はなく、敵に攻めかかって鑓を入れるのは難しい』と述べたということは、飛道具で重武装した敵に対して、飛道具(弓・鉄炮)なしで攻撃をかけることはできない(攻撃しても敵の飛道具〔弓・鉄炮〕の犠牲になって討死するだけ)、と立花吉左衛門が認識していた、という意味であろう」とも指摘されています。
 飛道具で武装した敵に対して、その装備もなしで攻撃をかけても勝ち目がないということを述べているわけですが、これを関ヶ原の戦い(山中の戦い)にあてはめてみると、飛道具で武装していることについては、三成ら豊臣公儀側と家康主導軍も同じだったと思われます。宇喜多秀家と福島正則との戦いにおいても、鉄砲隊の撃ち合いから、激しい白兵戦に移ったということが、白峰氏によって「生駒利豊書状」の分析から明らかにされており、最初は互角の戦いであったことがわかります。
 三成ら豊臣公儀側が敗れたのは、家康方と比べて兵力差がかなりあったこと(それに伴って飛道具の総量も異なっていたと思われます)と、最初から(途中からではなく)小早川秀秋が裏切ったことが大きかったのではないでしょうか。実際に三成ら豊臣公儀側で戦ったのは、三成、宇喜多秀家、小西行長、島津義弘(二番備でしたが、数に入れています)、大谷吉継ら(白峰氏の見解では、吉継は早朝の関ヶ原表での戦いで小早川と家康方軍勢によって挟撃されて壊滅し、次いで山中の戦いが行われたと主張されています)であり、8月5日頃の時点での陣立書によれば、彼らの軍の動員人数は合わせても三万人余に過ぎません。それに対して、家康方軍勢は裏切った武将も加えると倍以上の軍勢でした。大谷吉継が緒戦で壊滅してしまったことが、戦いの趨勢に大きな影響を与えたものと思われます。 

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