石田三成の実像2831 中西豪氏・白峰旬氏「最新研究 江上八院の戦い」19 実戦状況に関する白峰氏の考察10 圧倒的な兵力差・関ヶ原の戦いでも兵力数に差

中西豪氏・白峰旬氏の共著「最新研究 江上八院の戦い」(日本史史料研究会)の、白峰氏が担当されている「第四章 江上八院の戦いの実戦状況」の中で、立花勢の小野和泉守、立花吉左衛門、十時源兵衛が後日申し上げた「覚」に基づいて、この戦いの戦闘状況が復元されていますが、そのまとめとして、次のように解説されています。
「立花勢におけるそれぞれの備の動き(戦い)は、それぞれの備を率いる重臣クラスの部将の個別の判断になってくるので、後備の矢嶋左助のように敵に攻めかかるべき時に攻めかからなかったので、そのことが立花勢の敗因の一つになった。そして、それぞれの備を率いる重臣クラスの部将のそうした戦況判断のミスが、立花勢の先手のケースのように、その備そのものの崩壊や、その備を率いる重臣クラスの部将の討死(戦死)に直結したことがわかる(先手の安東五郎右衛門と石松安兵衛は、味方へ連絡せずに敵に攻めかかっていき結果的に討死した)。その意味では、立花勢全体での統一した軍事指揮系統がなく、その点は近代戦との大きな違いであろう。
 立花勢の戦闘状況を見ると、江上八院の戦いは完全な立花勢の負け戦(=完敗)だったのであり、そもそも敵(龍造寺・鍋島勢)との軍勢の数(兵力数)に圧倒的な差があったことは明らかであった」と。
 関ヶ原の戦いでも、兵力数に大きな差があったことが、白峰氏によって指摘されています。その上、関ヶ原の戦いでは、小早川秀秋が最初から裏切り、関ヶ原表に出ていた大谷吉継が前から来る家康方軍勢と背後の小早川勢によって挟撃され、壊滅してしまったことが、山中に布陣していた三成方のその後の総崩れにつながっていったとも述べられています。
 小早川秀秋が裏切るかもしれないことを、三成ら豊臣公儀軍が知っていたかどうかが大きな論点になっています。三成ら豊臣公儀軍が山中に布陣したという点では、白峰氏も高橋陽介氏も同じ見解を示しておられますが、陣の向きが家康方軍勢が来る東向きになっているのが白峰氏の見解であるのに対して、陣の向きは小早川秀秋が布陣したとされる南の松尾山の方向になっているのが高橋氏の見解です。高橋氏の見解からすれば、三成ら主力部隊は松尾山の小早川秀秋の動きを牽制していることになります。
 それは三成ら豊臣公儀軍が、なぜ大垣城から山中、関ヶ原方面に移動したかという問題と大きく関わってきます。従来は、家康に関ヶ原方面におびき出されたというのが通説になっていましたが、それは今は否定されています。この移動は小早川秀秋の動きを牽制するためであったとすることを中井俊一郎氏はかねてより主張されており、板坂ト斎の「慶長年中記」にも、秀秋が「むほん」を起こしたから、三成方が移動したと記されています。一方、家康方が大垣城の後詰である南宮山を攻めようとしたために、三成方は山中・関ヶ原方面に移動して「後詰の後詰」作戦を取ったという白峰氏の見解があります。このあたりについても、実際はどうだったのか、今後、さらなる検討がされると思います。

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