石田三成の実像2833 中西豪氏・白峰旬氏「最新研究 江上八院の戦い」20 実戦状況に関する白峰氏の考察11 戦いの実相を敵味方両方の史料から明らかにする必要性

中西豪氏・白峰旬氏の共著「最新研究 江上八院の戦い」(日本史史料研究会)の、白峰氏が担当されている「第四章 江上八院の戦いの実戦状況」の中で、立花勢の「小野和泉が申し上げた覚」にある「立花勢が十二備の敵勢のうち九備まで打ち崩した」という記述について、中西氏の疑義が次のように紹介されています。
 「柳川合戦では、もっぱら立花側の編纂史料に依拠して『十二段に布陣した一万二千の龍造寺・鍋島勢を立花軍は九段まで切り崩したが衆寡敵せずして攻めきれず引分け』といった経過が語られる。
 しかし、龍造寺・鍋島勢が十二段に布陣したことは確かだが、直茂の本陣ははるか後方の城島城の城外という縦深陣であった。立花側が龍造寺・鍋島勢の本陣と目した五反田は実は先手大将・茂里の本陣であり、龍造寺・鍋島勢で戦闘に加入したのは先手から第三陣までの兵力三千前後に過ぎず、立花勢は約千三百程度であった。現地に残る立花側将士の墓・供養塔の分布から見ても戦域の縦深は一キロメートル前後と思われる」
 「江上八院の戦いについて、①不期遭遇戦であり、立花勢は五月雨(さみだれ)式に出撃した、②龍造寺・鍋島勢は先手だけで戦った」と。
 白峰氏の同書では、この後、「勝者側と敗者側の一次史料による認識の差異」について論じられていますが、その点については後述します。
 戦いの実相を敵味方両方の史料から明らかにするというのは大事なことであり、江上八院の戦いについては、中西氏・白峰氏の同書ではそういう試みがなされ、大きな成果が挙げられています。
 しかし、戦いというものは、とかく勝者側からの記録だけが残りがちで、実態が見えにくくなっているのが現状です。
 関ヶ原の戦いも敗者側の史料は、島津家家臣の史料ぐらいしか残っていません。家康方武将の記した書状はある程度信が置けますが、後世に編纂された各大名家の関ヶ原の合戦についての記述は、自分たちに都合のよいように記されているので、信頼するのは危険です。「黒田家譜」も同様です。敗れて滅び去った者たちは、戦いについての記録を残すことはできませんから、勝者によって記されたものがそのまま真実のように思われるわけです。しかも、時代が経つにつれて、戦いの内容について、勝者の活躍を強調しようとするあまり、どんどん尾ひれがついていって、史実とはかけ離れたことになっていきます。家康が秀秋に裏切りを促すべく秀秋に鉄炮を撃ちかけたという、いわゆる「問鉄砲」の話も、江戸時代になってから作られた虚構であることが、白峰氏の研究によって明らかにされています。三成の書状で残っている最後のものは、関ヶ原の戦いの三日前のものですが、偽書説が白峰氏によって指摘されています。三成も関ヶ原の戦いの前に、家康と同様、各地の武将に多くの書状を出しているはずですが、そういう書状は、戦後、家康をはばかって廃棄したものが少なくなかったはずです。

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