石田三成の実像2835 中西豪氏・白峰旬氏「最新研究 江上八院の戦い」21 実戦状況に関する白峰氏の考察12 勝者側と敗者側の一次史料による認識の差異

中西豪氏・白峰旬氏の共著「最新研究 江上八院の戦い」(日本史史料研究会)の、白峰氏が担当されている「第四章 江上八院の戦いの実戦状況」の中で、「勝者側と敗者側の一次史料による認識の差異」について論じられていますが、まず10月20日付の加藤清正の家臣の吉村橘左衛門尉宛の鍋島直茂書状が取り上げられ、その記載内容について、次のようにまとめられています。
 「①今日(10月20日)、鍋島直茂が着陣したところ、八之院方面へ敵(立花勢)2000~3000人が出て来て防戦をした、②その結果、鍋島勢が勝利を得て敵の馬乗300余を討ち捕らえ、蒲池へ(敵を)追い込めて(=蒲池まで敵を撤退させて)八之院へ(勝利した龍造寺・鍋島勢が)陣取りをした、③生け捕った敵の者から聞いたところ、敵は小野和泉・矢嶋左介・三池傳(伊ヵ)兵衛が大将として出陣してきたとのことなので、これらの者共を(これから)討ち果たすか、取り押えて生け捕りたい、④八代方面(=加藤清正による八代城攻撃のことを指す)が済み、加藤清正は近日(柳川方面へ)着陣する予定であることを了承した、などの点がわかる」と。
 さらに「敗北した立花勢にとっては当初から防戦としての性格が強かった」こと、「江上八院の戦いに立花宗茂は出陣しなかったこと」、「加藤清正は江上八院の戦い当日の10月20日の時点では柳川方面へまだ着陣していなかった」こと、「鍋島直茂は10月20日の時点では、江上八院の戦いのあとも立花勢との戦いを継続する考えであった」ことなどの点が指摘されています。
 立花側が「防戦」だったというのは、龍造寺・鍋島勢が三万余騎であるのに対して、立花勢は二、三千であったということや、関ヶ原の戦いの後、立花の領地の周囲は敵だらけだったという状況などがそれを物語っています。
 八代城は小西行長の所領でしたが、清正の攻撃を受け、10月17日頃に落城し、城代の小西末郷は薩摩へ落ち延びていったことが、鳥津亮二氏の「小西行長」(八木書店)に記されています。典拠は、イエズス会側の史料ですが、10月16日付で清正が行長の旧臣の森左吉に宛てた書状も取り上げられ、清正が八代郡から知行を宛行っていることが明らかにされています。
 鳥津氏の同書には、「加藤清正が、家康から軍事侵攻による肥後一国の領有保証をとりつけたことにもとづき、行長不在の小西領へ軍事侵攻を行い」、「9月下旬には宇土城を包囲。宇土城の小西軍は清正の攻撃をよく防いだが、10月15日ごろに開城し、城代小西隼人は切腹した」ということも記されています。
 清正が立花宗茂の柳川に着いたのは、10月22日のことです(熊本日日新聞社編「加藤清正の生涯」)。

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