石田三成の実像2832 図録「特別展『唐入り』の時代ー秀吉の大陸出兵と大名たちー」1 天正20年1月付の増田長盛宛豊臣秀次朱印状

 徳島市立徳島城博物館発行の図録「特別展『唐入り』の時代ー秀吉の大陸出兵と大名たちー」の中で、天正20年(1590)1月付の増田長盛宛豊臣秀次朱印状が掲載され、次のように解説されています。
 「豊臣秀次は秀吉の姉の子にあたり、秀吉の養子となっていた人物である。本文書が発給される前年の天正19年(1589) に、秀次は秀吉から関白の職と聚楽第を譲られているが、その理由は国内政治を後継者の秀次に任せ、秀吉自身は『唐入り』の指揮に専念するためだったと考えられている。本文書は『唐入り』の火蓋が切られる天正20年の正月、関白秀次が出兵にあたっての体制整備を目的として作成した掟書である。違反者の厳罰を繰り返し表明するその内容からは、『唐入り』にかける豊臣政権の不退転の決意がうかがえる」と。
 秀吉が甥の秀次に関白職を譲ったのは、自分の息子の鶴松が夭折したからであり、その失意の念を「唐入り」で晴らそうとするためでもありました。もっとも、秀吉は以前から日本の統一がなった暁には、次の計画として、「唐入り」を考えていましたし、それは以前、織田信長も考えていたことでした。
 中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)には、「天正15年(1587)5月の島津義久降伏をうけ、筑前箱崎に凱旋した豊臣秀吉は、伺候してきた対馬島主宗吉智(初名『義智』)に対し、朝鮮国王のすみやかな来日と上洛を命じた」こと、「奥州からの帰路、秀吉は『唐入り』、すなわち明国征服に向けての具体的準備に入るべく、天正18年8月、小西行長・毛利吉成に指示を下」したこと、「帰洛した秀吉は、11月に朝鮮使節と対面した。この使節派遣の目的は日本の国内統一を祝うものであったが、秀吉は朝鮮が服属を表明したものとみな」したことなどが記されています。
 着々と秀吉は「唐入り」を進めていたことがわかりますが、三成は「唐入り」にもともと反対の立場でした。カンハンの「看羊録」の中にも、三成は日本国だけで十分で、外国を攻める必要はないと言っていたという記述がありますし、「博多記」の中でも、三成は博多の商人の嶋井宗室と秀吉に朝鮮出兵を止めるようにと進言したということが記されています。それは実際、文禄の役の際、秀吉の代わりに渡海した時、現地の悲惨な状況を見てこのままでは戦いは長続きしないだろうという見通しを述べた書状案を書いていることからも、その後、和平交渉を積極的に進めたということからも明らかです。
 もっとも、この秀次朱印状が出された頃は、三成は在京して朝鮮出兵の準備に当たっていたと考えられます(中野等氏「石田三成伝」)。自分の考えには反することながら、政権中枢に属する者としての役割を果たさねばなりませんでした。そこに三成の苦悩があったと思われ、それは秀吉が死ぬまで続いたと思われます。

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