石田三成の実像2836 図録「特別展『唐入り』の時代ー秀吉の大陸出兵と大名たちー」3 肥前名護屋城図屏風

 徳島市立徳島城博物館発行の図録「特別展『唐入り』の時代ー秀吉の大陸出兵と大名たちー」の中で、佐賀県立名護屋城博物館蔵の「肥前名護屋城図屏風」(複製) が掲載され、次のように解説されています。
 「『唐入り』の遂行にあたり、秀吉は壱岐・対馬を挟んで朝鮮半島と隣接する、肥前国名護屋の地を前哨基地に選定した。秀吉の御座所である名護屋城と、その周辺の武家屋敷や城下町の建設は天正19年(1591)ごろから急速に進められ、本資料に描かれるような一大城下町が形成されていくこととなる。本資料の原本は、佐賀県重要文化財に指定される桃山時代作成の優品で、狩野光信を中心とした土佐派の絵師が手がけたものと推測されている。その構図は北東方面から名護屋城周辺を俯瞰したもので、講和交渉に訪れた明使節と思われる集団が描かれていることなどから、おおよそ文禄2年(1593)ごろの名護屋城下の風景を描いたものとみられる。城郭施設、町並み、人物に至るまでが精緻に描きこまれた、極めて貴重な資料である」と。
 この図屏風は、名護屋城博物館で見たことがありますし、拙ブログで前述したように、昨年、オンライン三成会の人々と名護屋城跡を見学した後、かつての文禄・慶長の役の航路通り、壱岐・博多を経て釜山に船で渡りました。もっとも、秀吉の時代は、名護屋から船で行きましたが、われわれは博多から高速船で行きましたが。
 名護屋城の普請には、三成の兄の正澄も関わっています。この点について、水野伍貴氏の「石田正澄と石田三成」(『歴史読本』2011年12月号)の中で、「肥前名護屋城の普請で山里丸の数寄屋(すきや)などの造営を担当(『太閤記』)」と記されています。
 また太田浩司氏の「近江が生んだ知将 石田三成」(サンライズ出版)の中で、次のように記されています。
 「石田正澄は、名護屋城普請を最も早い段階から任されていた奉行であった。『太閤記』によれば、名護屋城山里丸の『数寄屋』や『二階門』など五ヶ所について、正澄が造営を担当したとある。一方、『豊前覚書』によれば、正澄の屋敷は名護屋城のすぐ近くにあったことが知られ、同城の維持・管理についても、正澄の役割は大きかったと見られる」と。
 正澄が「名護屋城普請を最も早い段階から任されていた奉行であった」ことを示すものとして、太田氏の同書では、天正19年(1591)8月23日付の相良頼房(長毎)宛の石田正澄書状の記述が挙げられています。 
 正澄は名護屋城にとどまって渡海していませんが、三成は秀吉に代わって増田長盛・大谷吉継らとともに朝鮮半島に渡っています。この三奉行が渡海した後、朝鮮半島の日本軍の悲惨な状況を記した三奉行連署状案が残っており、この図録にも掲載されていますが、宛名は名護屋城にいる石田正澄、木下吉隆、長束正家宛になっています。
 

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