石田三成の実像2828 中井俊一郎氏の講演「書状から読み解く三成の人間力」17 文禄の役の悲観的な予見を記した三成等三奉行連署状 

 中井俊一郎氏の講演会「書状から読み解く三成の人間力」の中で、三成の「武将としての能力」を示す書状として、まず天正18年(1590)6月13日付の浅野長吉宛三成書状が取り上げられていましたが、それに続けて文禄2年(1592)月日未詳の長束正家ら秀吉近臣宛の増田長盛・大谷吉継・石田三成書状が挙げられ、次のように現代語訳されています。
 「(大意訳)当国の状況を連判をもって注進申し上げます。しかるべく(秀吉に)披露ください
 一、大明国へ年内乱入するよう指示を受けたこと、先手へ申し遣わしましたが、小西行長が都(漢城)へまかり越して言うところでは、先々は兵糧もなく、そのうえ寒天に向かい、途中の道筋も無人になり返すこともできなくなるとのことです。各々で相談し、まず国郡へ入り政務を行うよう申し付けました。(指示に従わず)お詫びします。
 一、いままで注進されていたのと違い、(朝鮮)国内は静謐ではありません。恐れながら年内に遼東を越え、大明国へ乱入しようとしても先手に立つ者もいません。釜山より遼東までのつなぎの城に入れる人数もなく、二百人や三百人ずつ入れたぐらいでは籠城もできないでしょう。私はありのままを申し上げています。(略)
 一、敵兵を五百人千人も殺すあいだ、こちらの者も五十人百人と果ててしまい、また手負いの者も出ます。このままでは、勝ち続けるうちに日本人は無人になってしまうでしょう。年内はまず国郡を治め、今年はなんとしても丈夫にと申し付けました。(略)」と。
 この書状について、講演会では「朝鮮の役のその後を正しく予見した書状」だと解説されていました。
 この書状は、オンライン三成会編「三成伝説」、中井氏の「石田三成からの手紙」(いずれもサンライズ出版)の中でも取り上げられていますが、この書状は案です。 
 秀吉は「7月15日付の朱印状によって、当年中に明国境に迫るようにしたとした軍令を改め、まずは朝鮮半島内の支配を優先するように指示している」と中野等氏の「戦争の日本史16 文禄・慶長の役」(吉川弘文館)に記されていますから、秀吉は三成ら三奉行のこういう報告を受けて軍令を改めたとも考えられます。
 しかし、三奉行連署状にはこの戦い自体を否定するような内容まで含んでいますから、三成らは実際はもっと和らげた内容にしたのかもしれません。ストレートに書くと、秀吉の怒りを買うかもしれないからです。
 文禄2年と云えば、日本軍が破竹の勢いで進撃していた時期ですが、各地で義兵が立ち上がっていましたし、制海権は李舜臣によって奪われていました。翌年になって、明・朝鮮軍が本格的に攻勢を強めますが、その前に三成らが的確に戦況を分析していたのはさすがだと云えます。

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