石田三成の実像2837 中西豪氏・白峰旬氏「最新研究 江上八院の戦い」22 実戦状況に関する白峰氏の考察13 勝者側と敗者側の一次史料による認識の差異2

中西豪氏・白峰旬氏の共著「最新研究 江上八院の戦い」(日本史史料研究会)の、白峰氏が担当されている「第四章 江上八院の戦いの実戦状況」の中で、「勝者側と敗者側の一次史料による認識の差異」について論じられていますが、10月27日付の島津義久・島津義弘・島津忠恒宛の立花宗茂書状が取り上げられ、その記載内容から、次のような点が指摘されています。
 「敵との圧倒的な軍勢数(兵力数)の差により、立花宗茂は居城の柳川城への籠城に追い込まれたことがわかる」
 「立花宗茂は、敵(龍造寺・鍋島勢)との圧倒的な兵力差があり、立花勢は手負いや戦死が多数出たことは認めている」、しかし、「数刻戦って互いに勝負はつかなかった、としている点は、明らかに事実をねじ曲げていると言わざるを得ない」
 「敗者側である立花宗茂は江上八院の戦いに大敗したことを認めたくなかったのであろうが、勝敗の結果については、勝者側の鍋島直茂の認識(前掲[史料4]で『勝利』を得た、と明記している)の方が、客観的に見て正しいことは明らかである。このように一次史料であっても、内容的に正しいことが記されているのかどうか検証が必要である、という点は注意すべきであろう」
 「『龍造寺家が国中(肥前国)の軍勢を動員して』とあることは、この時点(慶長5年10月)での当主は龍造寺家であり、鍋島家は陣代という立場であったことを明確に示している。このことを他大名である立花宗茂がそのように認識していた(鍋島家の軍勢ではなく龍造寺家の軍勢と認識していた)ということが一次史料で確認できる点は重要である」と。
 「前掲[史料4]」とは、拙ブログ記事で前述したように、10月20日付の鍋島直茂書状のことです。
 鍋島家が龍造寺家から領主の地位を「簒奪」したのではないという中西氏の見解があることも白峰氏の同書で触れられていますが、この見解については、中西氏が同書の第二章「戦国時代龍造寺氏の盛衰と鍋島直茂」で詳述されており、拙ブログで改めて取り上げたいと思います。 
 この時点で、島津家は家康に服属していませんでしたから、立花宗茂は負けたということを島津家には言いたくなかったのでしょう。これは味方に悪い情報は伝えず、楽観的な見通しを述べるという戦略上の常識であり、そう記したからといって宗茂の味方が甘かったという事にはなりません。
 それは関ヶ原の戦いでも同様であって、三成は真田昌幸らに宛てた書状の中で、楽観的な見通しを述べています。それによって、三成の戦況分析や見通しが甘かったということがよく言われますが、成果や見通しを誇張することで相手を安心させようとする意図が働いていたからではないでしょうか。

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