石田三成の実像2827 中西豪氏・白峰旬氏「最新研究 江上八院の戦い」17 実戦状況に関する白峰氏の考察8 立花吉左衛門の救援、追い討ち

中西豪氏・白峰旬氏の共著「最新研究 江上八院の戦い」(日本史史料研究会)の、白峰氏が担当されている「第四章 江上八院の戦いの実戦状況」の中で、立花勢の小野和泉守、立花吉左衛門、十時源兵衛が後日申し上げた「覚」に基づいて、この戦いの戦闘状況が復元されていますが、そのうち「立花吉左衛門が申し上げた覚」の内容、それについての考察の続きです。
 合戦前日、「榎木津村」で、「立花吉左衛門の軍勢は敵の雑兵27人を討ち取った」あと、「立花宗茂の命によって、黒田如水の押えのために水田口(現福岡県筑後市水田)へ移動した。立花吉左衛門の一手(軍勢)の三分の一は城番(城名不明)に置いた」、水田口の「黒田如水の軍勢に対して、立花吉左衛門の方から戦いを仕掛けてはいけないというように立花宗茂から事前に命じられていたので、『せり合』(接近したいくさ)はなかった。この点については、黒田如水の軍勢が戦場である江上八院へ向かわないように、立花吉左衛門の軍勢が、黒田如水の軍勢と直接対戦せず、単に対峙することに意味があった、ということなのであろう」、そして合戦当日、吉左衛門は江上八院の戦いが不利な状況にあることを聞いて、「約6~7キロ」の距離を駆け付け、「戦いは最終段階であった」ものの、「敵に対して追い討ちをした」と。
 水田口の黒田如水の軍勢がはるかに多いことも記されており、立花吉左衛門は立花宗茂の命令もあって、戦いを挑まなかったわけですが、雑兵を討ち取るという勇猛果敢な点と、冷静な判断ができるという、両面を持ち合わせていたので、立花宗茂に信頼されていたのでしょう。
もっとも、「覚」には、「立花吉左衛門が、もう少し早く江上へ駆け付けていたならば、味方の勝利になるはずだった」と記されているものの、「江上八院の戦いでの立花勢の敗北の仕方を考慮すると、立花吉左衛門の来援だけでは立花勢の勝利を決定付けることはできなかったであろう」と指摘されています。
 拙ブログで前述したように、立花吉左衛門は関ヶ原の戦いの直前の大津城攻めの際、戦功を挙げ、後に立花宗茂から感状、及び軍忠一見状を発給されていますが、軍忠一見状は次のような内容です(白峰氏『慶長5年9月13日の大津城攻めについての立花宗茂発給の感状と軍忠一見状(合戦手負注文)に関する考察』)。
 「慶長5年9月13日の大津城攻めの時、立花吉左衛門尉の『手之者』の分捕、或いは、被疵、戦死の衆の着到を披見した ※頸1、被疵衆19人、戦死の衆2人」。
 なお、立花吉左衛門の石高は、4000石で、大津攻めに参加した立花家臣の中では、一番石高が多いことが、白峰氏の同書で明らかにされています。
 大津攻めは戦死者を出す壮絶な戦いながらも、立花吉左衛門は戦功を立てていますから、そういう自信があったから、自分が江上に駆け付けていたなら味方は勝っていたと考えたのかもしれません。

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