古代史 番組「諸説あり 邪馬台国スペシャル」 畿内説・九州説・移動説それぞれの根拠 37年前の中国研修旅行で泊まった曲阜
TBSの番組「諸説あり 邪馬台国スペシャル」(昨年の再放送)で、畿内説の根拠、九州説の根拠がそれぞれ挙げられていましたが、興味深いのは中国の研究者の大半は、邪馬台国は当然のように九州にあったと考えていることでした。中に一人、陳教授は邪馬台国は九州から畿内に移動したという説を唱えていました。その根拠として、九州の北部と畿内に同じ地名があることが挙げられていました。笠置山、田原、三輪、朝倉など多数あり、しかも地名の配置まで似ていると。中国でも似た例があり、孔子が住んでいた魯の国の首都である「曲阜」は現在は山東省にあるが、もともと河南省にあったこと、国が移動したので地名も移動したが、このようなことは古代ではよくあったことだと。番組では、出演者たちが神武天皇の東征の話も、その痕跡かもしれないと述べていました。政治の中心が、九州から畿内に移ったのはありうる話だと思っていますし、今後、ますます邪馬台国論議は熱くなってゆくに違いありません。
ちなみに、畿内説の根拠の一点目として挙げられていたのは、巻向遺跡には、当時としては日本最大級の建物群があり、出土した桃の種の年代が卑弥呼の時代と確定し、卑弥呼の王宮である確率が高まったこと。二点目は、巻向遺跡から、数千点に及ぶ土器が出土し、全国各地で作られたものが集まっていること。三点目は、箸墓古墳が、最古の前方後円墳であり、円墳の長さが、卑弥呼の墓の長さと一致すること。四点目は、邪馬台国が魏に大量に贈った、水銀が抽出される丹の山が、大和水銀鉱山跡だと考えられ、丹が採れた時期が卑弥呼の時代と一致すること。
一方、九州説の根拠の一点目として挙げられていたのは、吉野ケ里遺跡が「魏史倭人伝」と同じ構造の集落になっていること。真ん中に宮室、その外側に楼観(物見やぐら 四つ確認できます)、その周りに城柵が取り囲んでおり、さらにその外側に深い外環濠が張り巡らされていて、城柵や外環濠は畿内では見られないものであること。二点目は、鉄製の武器が二百六十点発見され、武器として用いられた鉄の矢尻も多数あり、倭国で大乱があったことを示していること。三点目は、九州北部では四十点余りの硯が発見され、机も出土し、この時代、すでに文字を使っていると思われること。さらに四点目として、平原(ひらばる)王墓から、ピアスなどの女性の装飾品や大量の銅鏡が出土し、しかも銅鏡が割られて置かれており、埋葬されているのは呪力や霊力を持つ人物だということなどから、卑弥呼の墓の可能性が高いということ。
37年前の2週間の中国研修旅行では、10日目に曲阜の孔府に泊まりました。孔子の子孫の広大な邸宅跡で、回廊に添って、たくさんの部屋が並んでおり、そこに泊まりましたが、貴重な経験でした。写真はその時にもらったパンフレットです。孔廟は孔子を祀る場所、孔林は孔子一族の墓所です。
ちなみに、畿内説の根拠の一点目として挙げられていたのは、巻向遺跡には、当時としては日本最大級の建物群があり、出土した桃の種の年代が卑弥呼の時代と確定し、卑弥呼の王宮である確率が高まったこと。二点目は、巻向遺跡から、数千点に及ぶ土器が出土し、全国各地で作られたものが集まっていること。三点目は、箸墓古墳が、最古の前方後円墳であり、円墳の長さが、卑弥呼の墓の長さと一致すること。四点目は、邪馬台国が魏に大量に贈った、水銀が抽出される丹の山が、大和水銀鉱山跡だと考えられ、丹が採れた時期が卑弥呼の時代と一致すること。
一方、九州説の根拠の一点目として挙げられていたのは、吉野ケ里遺跡が「魏史倭人伝」と同じ構造の集落になっていること。真ん中に宮室、その外側に楼観(物見やぐら 四つ確認できます)、その周りに城柵が取り囲んでおり、さらにその外側に深い外環濠が張り巡らされていて、城柵や外環濠は畿内では見られないものであること。二点目は、鉄製の武器が二百六十点発見され、武器として用いられた鉄の矢尻も多数あり、倭国で大乱があったことを示していること。三点目は、九州北部では四十点余りの硯が発見され、机も出土し、この時代、すでに文字を使っていると思われること。さらに四点目として、平原(ひらばる)王墓から、ピアスなどの女性の装飾品や大量の銅鏡が出土し、しかも銅鏡が割られて置かれており、埋葬されているのは呪力や霊力を持つ人物だということなどから、卑弥呼の墓の可能性が高いということ。
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