石田三成の実像2863 中西豪氏・白峰旬氏「最新研究 江上八院の戦い」33 中西氏「第一章 龍造寺・鍋島氏にとっての『関ヶ原』、江上八院の戦い」9 会津攻め2

 中西豪氏・白峰旬氏の共著「最新研究 江上八院の戦い」(日本史史料研究会)の、中西氏が担当されている「第一章 龍造寺・鍋島氏にとっての『関ヶ原』、江上八院の戦い」の中で、慶長5年の家康による会津攻めにおける鍋島直茂・勝茂父子の動きについて、次のように記されています。
 「直茂も当然の如く家康に従軍を願ったが、帰国して豊前中津に在国する黒田如水とも協議して九州筋の押さえとなることを命じられた。直茂は即日帰国するが、家康に書状を送って勝茂・高房を代わりに従軍させることを言上している。また本願寺准如に、上方有事の際には自身や勝茂の妻子の保護を要請して快諾を得ている。
 会津征伐に従軍することになった佐賀勢の陣立は、朝鮮出兵時のそれと大きく変わらぬ龍造寺・鍋島連合軍というべきものであったが、直茂が参加していないからか、龍造寺一門の比重が高い」と。
朝鮮出兵ですが、文禄の役では、鍋島直茂隊は加藤清正隊、相良頼房隊と共に二番隊として出陣し、一万二千人を率いていました。慶長の役では、四番隊として出陣し、やはり一万二千人を率いていました。その軍勢の実態は、龍造家・鍋島連合軍だったわけです。もっとも、朝鮮出兵の時は、鍋島直茂が隊を率いていたのに対して、会津攻めの際の指揮官は鍋島勝茂と龍造寺宗家家督の高房であったこと、勝茂らは「江戸に下向する家康軍を追って直ちに上方を発すべきところ、なぜか京都近辺で一か月近くも逡巡し、7月初旬にようやく東進し始めた頃には石田三成が挙兵し、三成の兄・正澄が近江愛知川の関を閉ざしていた」ことが中西氏の同書に記されています。
 勝茂が家康党であったとすれば、すぐに会津攻めに従軍したはずですが、「逡巡し」ていたことから見ると、会津攻めに疑問を感じていたと考えるのが自然ではないでしょうか。それだからこそ、三成らが挙兵した時、勝茂は関所を閉ざされ東進できないというやむをえない面があったとは云え、三成ら豊臣公儀側に就いたことからみて、豊臣公儀に親近感を覚えていたことを示すものではないでしょうか。父親の直茂の方は、家康党であったというのが中西氏の見解ですが、これについては本当にそうなのか疑問があり、改めて取り上げます。
 三成ら豊臣公儀側に属した勝茂・龍造寺の軍勢の数について、中西氏の同書には、「『勝茂公譜』『勝茂公譜考補』などによれば七千とも八千と伝えられ」、「真田昌幸宛石田三成書状には九千三百とある」と記されています。この動員人数は、矢部健太郎氏の「関ヶ原合戦と石田三成」(吉川弘文館)の中でも、鍋島家は同じ動員人数が挙げられています(矢部氏は豊臣公儀軍のことを「正規軍」と表現されています)。もっとも、三成書状にある豊臣公儀側の動員人数は8月5日頃のもので、白峰氏の「新『関ヶ原合戦』論」(新人物ブックス)にも表として掲載されていますが、そこには「伊勢口」(伊勢方面軍)として「龍造寺(龍造寺高房・鍋島勝茂)」隊として「九千八百人」と記され、微妙に数字が違っています。

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 1

面白い

この記事へのコメント