石田三成の実像2865 図録「特別展『唐入り』の時代ー秀吉の大陸出兵と大名たちー」15 慶長2年8月25日付の鍋島勝茂宛早川長政・熊谷直盛・垣見一直連署状 鼻の請取状

 徳島市立徳島城博物館発行の図録「特別展『唐入り』の時代ー秀吉の大陸出兵と大名たちー」の中で、慶長2年8月25日付の鍋島勝茂宛早川長政・熊谷直盛・垣見一直連署状が掲載され、次のように解説されています。
「目付衆として、慶長出兵における在陣諸将を監督する早川長政・熊谷直盛・垣見一直によって鍋島勝茂に発給された請取状。届けられたのは、二六四個にも及ぶ『鼻』である。特に慶長出兵に際して、重くかさばる首級のかわりに、敵の鼻が盛んに切り取られ、提出されるようになった。写真にみえる京都方広寺の『耳塚』は、戦功の証として大量に日本に送られた鼻を、秀吉の指示で祀ったものとされる」と。
 慶長の役は、文禄の役よりもっと悲惨な状況であったことがわかります。
 これと同じような、同年10月1日付の鍋島清茂(勝茂)宛早川長政・熊谷直盛・垣見一直連書状(鼻数請け取り証)が、中野等氏の「戦争の日本史16 文禄・慶長の役」(吉川弘文館)の中で取り上げられていますが、次のような内容です。
 「金溝・金堤両郡ニおゐて御成敗の頭の鼻数の事、
   合わせて三千三百六拾九也
 右、慥かに請け取り申す所也」
 この連署状について、中野氏の同書には、次のように解説されています。
 「鍋島勢が忠清道(チュンチョンド)に近い金溝(キムグ)・金堤(キムジュ)にも『制圧』の軍勢を展開していたことがわかるが、そこでは三千を超える『鼻削ぎ』が進められたのである。朝鮮の民衆が、諾々と日本の支配を受け入れたわけではない大きな証とみることができよう」と。
 図録で取り上げられている連署状では、「昨今之首」と記されていて、場所は明記されていません。中野氏の同書には、勝茂の陣所が全羅道(チョルラド)康津にあったこと、勝茂は「『上官ならびに侍分』の探索を進め、民衆の還住策を進めたものと考えられる」ことが記されています。しかし、民衆が日本軍に抵抗したことが、この犠牲者の数の多さからわかります。
 DSCN0575.JPG 図録には、「耳塚」の写真が参考として掲載されていますが、拙ブログの写真は昨年撮ったものです。豊国神社のそばに建っています。
 三成は慶長の役には、直接関わっていませんが、こういう残虐な行為には、批判的だったと考えられます。それは、二十六聖人殉教事件の際、京都奉行の三成は犠牲者の数をなるべく少なくむしようと務め、また秀吉は彼らの鼻削ぎと耳削ぎを命じたものの、三成は左の耳たぶを削ぐだけにとどめたことでもうかがえます。それが三成にできるせいぜいの抵抗でありキリシタンへの温情でした。

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