石田三成の実像2864 秀吉が最晩年に築いた「京都新城」の遺構発見・秀吉の死後、北政所が移住・北政所が三成寄りだった根拠

秀吉が最晩年に築いた「京都新城」の遺構が発見されたという記事がネットニュースや新聞に出ていました。石垣や堀、金箔瓦などが発掘されました。「京都新城」があった場所は現在、仙洞御所になっています。秀吉の死後、未亡人の北政所(おね 高台院)が大坂城から移り住み、死ぬまでここで過ごしました。ドラマなどでは、北政所は淀殿が牛耳る大坂城にいるのが嫌になって、自分が住んでいた大坂城西の丸を家康に譲って、京都に隠居したというふうに描かれることが多いのですが、大坂城は淀殿、京都新城は北政所が担当し(朝廷との応接、豊国社の運営、方広寺大仏殿の供養などが役目)、連携して豊臣政権を支えていたという福田千鶴氏の見解があります。関ヶ原の戦いの際、北政所が家康の味方をしていたということもよく言われますが、関ヶ原の戦いの直後、北政所は「京都新城」から裸足で京都御所に一時逃げ込んでいますし、戦後、石田三成の三女の辰姫を北政所の養女にして津軽家に嫁がせてしますから、北政所は三成寄りであり、豊臣家のことを第一に考えていたと思っています。
 朝日新聞の朝刊で、本郷和人氏は、秀吉は関白として政務を執るための聚楽第を作ったが、秀次事件の後、それを壊したものの、秀吉にとって京都の持つ重要性は変わらず、それに代わるものが「京都新城」だったという見解を述べられていました。また北政所の死後、家康が退位した天皇のため、「京都新城」を壊して、その場所に仙洞御所を建築した理由について、「徳川は豊臣の痕跡を消したかった」という見解も述べられていましたが、この見解もその通りだと思います。
 しかし、「京都新城」を築城した秀吉の意図について、「万が一、自分の死後に徳川家康に権力の座を奪われたとしても、公家として豊臣家を存続させたい。摂政・関白職を独占した五摂家と並ぶ武家貴族になったんだ、という権威を残したかったのかもしれない」という思いを持っていたという見解には、一部、同意しかねるものがあります。
 確かに、秀吉は五摂家に並ぶ武家貴族になりましたし、秀吉にとって、関白は公家だけでなく武家も統率する位置を占めるものであって、幕府政治とは異なる体制を築こうとしていました。しかし、秀吉は自分の死後も豊臣家が家康などに権力を奪われないようにするために、京都御所のそばに「京都新城」を作って、秀頼の基盤を強固にし、将来関白として、天下人になってほしいと思っていたのではないでしょうか。
 IMGP1707.JPGIMGP1731.JPG 写真は以前に撮った仙洞御所ですが、伝統美にあふれた庭園は見ごたえがありました。「京都新城」があった場所だと思うと、余計に感慨深いものがあります。

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