石田三成の実像2867 図録「特別展『唐入り』の時代ー秀吉の大陸出兵と大名たちー」16 天正20年5月4日付の町田久倍等11名宛島津義久書状 朝鮮出兵の重荷

徳島市立徳島城博物館発行の図録「特別展『唐入り』の時代ー秀吉の大陸出兵と大名たちー」の「第2部 諸大名の『唐入り』」の中で、まず島津氏に関係したものが掲載されていますが、天正20年5月4日付の町田久倍等11名宛島津義久書状が取り上げられ、次のように解説されています。
「島津義久は、秀吉の九州出兵に際して出家し『龍伯』と号するが、分国の内政においては実権を持ち続けていた。この文書は、文禄出兵の戦端が開かれた直後にあたる天正20年(1592)5月、義久が分国内の重臣たちに宛てたもの。『唐入り』のため、義弘とその子・忠恒が渡海し、また義久自身も名護屋在陣を義務づけられたことを伝え、その負担を嘆きつつも、島津氏の国家存続のため各々の尽力を求めている。島津氏にとって、『唐入り』がいかに大きな重荷となったかを端的に示す資料といえるだろう」と。
 島津氏の朝鮮出兵に関連して、中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、同年1月21日付の島津義久・義弘宛細川幽斎・石田三成連署状が取り上げられ、その内容について、「出水島津家の処遇を述べ、琉球との交渉を島津家に委ねること、肥前名護屋への出陣などを指示している」と記されています。
 出水島津家は、「薩摩出水を本拠とする島津家の分家で、戦国期には一時、島津家の嫡流を凌ぐほどの勢力を誇った家である」が、当主の「忠辰は、豊臣政権に対しては非協力的な態度をとり、役負担などに応じない姿勢をみせていた」と説明されています。
忠辰の豊臣政権に対する非協力的な態度はその後も変わらず、その後、秀吉の命令を無視して朝鮮半島に渡らず、文禄2年(1593)5月に改易され、小西行長のもとに預けられます。結局、その年に忠辰は亡くなっています。
 琉球との交渉については、中野氏の「戦争の日本史16 文禄・慶長の役」(吉川弘文館)の中で、天正16年8月12日付けの琉球の中山王宛の島津義久書状案が取り上げられ、琉球に半ば脅しをかけながら、日本にすみやかに使節を派遣するよう求めているという内容だと記されています。実際、その翌年の夏に、琉球国王は秀吉のもとに使節を派遣しています。
三成も幽斎も島津家の取次であり、島津家に対していろいろ指示を与えていますが、義久も義弘も、島津家にとって朝鮮出兵が大きな負担になっていることをよくわかっており、特に義弘は実際、朝鮮半島に渡って戦うことを義務付けられていただけに、なかなか準備が整わず朝鮮半島に渡れないことでイライラし、「日本一の大遅参」だと嘆いています。

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