石田三成の実像2866 中西豪氏・白峰旬氏「最新研究 江上八院の戦い」34 中西氏「第一章 龍造寺・鍋島氏にとっての『関ヶ原』、江上八院の戦い」10 三成らの反家康挙兵の際の鍋島勝茂の姿勢

中西豪氏・白峰旬氏の共著「最新研究 江上八院の戦い」(日本史史料研究会)の、中西氏が担当されている「第一章 龍造寺・鍋島氏にとっての『関ヶ原』、江上八院の戦い」の中で、慶長5年、三成らが反家康の挙兵をし、三成の兄の正澄が愛知川の関所を閉ざして、会津攻めに行かないようにした時における、鍋島勝茂らの思いについて、次のように記されています。
 「勝茂は龍造家一門以下諸将の意見を徴した。龍造家家久を始めとする主だった諸将の一致した進言が興味深い。
 『大坂には(勝茂公の)母公が人質に取られていますが、直茂殿がここにおられれば、即座に関を打ち破り家康公に続かれるのは必定。妻子を打ち殺しにして武門の本意を遂げることは古来少なからず例のあることです。しかし、勝茂殿にはそのような真似はできますまい。目前の理に従って上方にお帰りになるにしかず』と、『水江事略』(多久龍造家氏当主の事績を記す史料)に見えるものである。龍造家一門以下の重臣はこの非常の際に、直茂ならばどう対処するか予測はできたものの、それを勝茂に実行させることは避けたのである。これは家康に深く与する直茂の立場を理解しながら、それを否定するものでもある。前途は関を閉ざされ、後方の情勢も不穏である。周囲皆敵となり得る情勢から逃れる現実的判断であったともとれる」と。
 「水江事略」は編纂史料ですから、どこまでその記述に信が置けるかわかりませんが、確かに勝茂が母を人質に取られ、関所を閉ざされている状況に遭って、三成・毛利ら豊臣公儀軍に就くしか選択肢はなかったということもありうるかもしれません。島津義弘が三成・毛利方に付いたのも、義弘の子の忠恒の夫人である亀寿姫と、義弘夫人が人質に取られていたのが大きかったと桐野作人氏は主張されています。特に亀寿姫は、島津義久の三女であり、彼女の身に何かあれば、忠恒の島津家の跡継ぎとしての正統性が失われてしまうと。その点は、勝茂とは事情が違いますが、人質のために、豊臣公儀軍につくことでは変わりありません。
 もっとも、「水江事略」における直茂が家康側であったという記述については、本当にそうなのかは、改めて検討する必要があると思います。江戸幕府に対する配慮が働いていることを考慮しなければなりません。勝茂は若いだけに分別がなく、それを家臣もわかっていたというふうに描かれていることが、幕府に対する言い訳のようにも聞こえます。
 三成・毛利ら豊臣公儀軍に加わった勝茂・龍造寺軍はまず伏見城を攻撃します。この攻撃について、上方にいた鍋島・龍造寺軍の有力者のほとんどが加わっていたことが、中西氏によって明らかにされています。
 

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