石田三成の実像2901 中西豪氏・白峰旬氏「最新研究 江上八院の戦い」48 中西氏「第一章 龍造寺・鍋島氏にとっての『関ヶ原』、江上八院の戦い」24 家康と対決することも覚悟していた直茂

 中西豪氏・白峰旬氏の共著「最新研究 江上八院の戦い」(日本史史料研究会)の、中西氏が担当されている「第一章 龍造寺・鍋島氏にとっての『関ヶ原』、江上八院の戦い」の中で、領国にいた鍋島直茂が、関ヶ原の戦い本戦の結果を知った後の立場について、次のように記されています。
 家康に「征伐される可能性に鑑み、直茂は佐賀城外の八戸に今も地名に残る『十間堀』を掘らせて佐賀城の防備を固めた。さらには家康自身が下向した場合のその本陣を豊前小倉と想定し、征伐軍の先鋒を国境で食い止めている間に選りすぐった精兵を発し、筑後方面から迂回してこれを急襲するという乾坤一擲の作戦案を練り、具体的な準備も進めていたのである。この事実は、江戸時代は徳川幕府を憚ってか、佐賀藩の編纂史料類には残されていないが、口伝として伝えられていたらしいものである」と。
 こういうことが事実とするなら、直茂は家康側と軍事的に対決することも覚悟していたことの証ではないでしょうか。9月26日の時点でも、なお豊臣公儀寄りの姿勢を見せていたのは、直茂書状からも明らかです。それは、豊臣公儀側の軍に属していた龍造寺・鍋島勝茂が、家康によって処分されることを踏まえての、姿勢ではなかったのかと私は思っています。彼らの弔い合戦をしなくてはならないとの心意気が感じられてなりません。しかし、龍造寺高房が家康の人質になり、勝茂が立花宗茂を討つという条件で赦免されることを直茂が知ってからは、お家存続のために家康側に就くことを一も二にもなく、決心したものと思われます。むろん、家康への感謝の念もあったのでしょう。秀吉死後、関ヶ原の戦いまでの直茂は、家康寄りだったことも、家康によって 評価されたのかもしれません。
 中西氏の同書では、直茂が関ヶ原の戦いの際、豊臣公儀側、家康方いずれが勝っても領国が保たれたように二股をかけていたとする見方は否定され、「実のところは勝茂が独断で西軍参加を決したのである」と指摘されています。確かに、勝茂の豊臣公儀方への加担は独断だったかもしれませんが、伏見城陥落を知ってからは、直茂は豊臣公儀方寄りの姿勢に変わったのではないでしょうか。
 勝茂が豊臣公儀方に就いたことに関して、中西氏の同書には、勝茂が最晩年に嫡孫の光茂に語っている言葉が紹介されています。
 すなわち、「陪臣の嫡子にすぎない身であるのに豊臣秀吉から大名世子並みの叙位任官を許されたことを非常に光栄なことと捉え、秀吉の遺児秀頼を擁する三成以下の反家康決起軍こそが豊臣政権の正統であると確信し、それに加担することが秀吉の恩顧に報いる唯一の道であり、そのためには龍造寺・鍋島の御家を滅ぼしても悔いはないと思い詰めていた、というのである(『光茂公譜考補』)」と。
 この言葉に偽りはないという気がします。三成も秀吉に取り立てられて今の自分があると思ったのでしょうし、豊臣政権の維持こそが自分の存在意義だと感じ、そのためには家康を排除しなければならないと挙兵を決意したのでしょう。

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