石田三成の実像2902 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」8 水野伍貴氏「徳川家康の戦い」6 三成の家康邸襲撃計画は作り事

 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の水野伍貴氏の「徳川家康の戦い」の中で、家康の婚姻が問題になった頃に、三成が家康を襲撃する噂があったとする「板坂卜斎覚書」「当代記」の記載に関して、否定的見解が示されています。
 すなわち、「大身の大名である四大老が味方にいる状態で、三成が単身決起に近い形で襲撃を企てるとは考え難い(中略)。
 江戸時代に成立した諸史料が三成による家康邸襲撃の風聞を記すのは、神君(家康)が豊臣公儀の中枢から半ば排斥された状態に陥り、征討の危機にも直面した不名誉な事件を矮小化させる意図があったのであろう。大老・奉行衆による家康征討の動きは、秀頼の名のもとに征討する『公戦』という性格をもっていたが、三成による襲撃計画とすることで公儀性を取り除かれ、いわゆる『私戦』へと塗り替えられたのである」と。
 こういう水野氏の見解を、私は全面的に支持します。大河ドラマ「真田丸」でも、三成が家康を襲撃しようと企てたものの、賛同する者がなく、諦めたというふうな描き方がされていましたし、小説やドラマでもたびたびそういう場面が出てきました。しかし、拙ブログても以前、記したように、それはありえないと私も考えています。三成はあくまで豊臣公儀の立場に立って、四大老・五奉行の名をもって、家康を糾弾しようとしていましたから、暗殺や襲撃という手に出るはずはありません。
 さらに云えば、この翌年、家康が上杉攻めをする際、江戸に下向する途中の家康を、三成の家臣の嶋左近らが襲撃しようという話も、作り話のたぐいだと考えています。慶長5年、三成などが挙兵したのは、家康を豊臣公儀から排除して、二大老・四奉行制による新たな豊臣公儀の樹立をするためであり、家康を私的に襲うはずがありませんし、もし家康が江戸に下向する最中に、そういうことをし、それが家康に知られれば、三成らの挙兵計画は水泡に帰します。事実、通説に従えば、嶋左近らによる家康襲撃計画は失敗しますから、家康はその時点で、江戸下向を中止し、上方の怪しい動きに手を打ったはずですが、そのようなことはしていません。こういう話が今までまかり通ってきたのは、家康は自分が上方を留守にすれば、三成らが動き出すと踏んでいたという捉え方に基づくもので、家康が三成の挙兵を促し、自分に反対する勢力を一掃するという作戦だったとする徳川史観の産物です。
 しかし、実際に家康が取った作戦は、水野氏の同書で明らかにされているように、大老を一人ずつ屈服させ、味方に取り込んでゆくという方法でしたから、会津攻めの際も、あくまで会津を屈服させるのが目的であり、まさかその虚をついて三成らが反旗を翻し、天下を二分する戦いになろうとは思っていなかったのではないでしょうか。それは白峰氏が指摘されているように、家康弾劾状である「内府ちかひの条々」が出されることによって、家康の公儀性を奪われたことでもわかります。家康はまさか、豊臣政権から排除されるとは思っていなかったのではないでしょうか。

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