石田三成の実像2903 中西豪氏・白峰旬氏「最新研究 江上八院の戦い」49 中西氏「第一章 龍造寺・鍋島氏にとっての『関ヶ原』、江上八院の戦い」25 勝茂が領国に戻った後の、鍋島直茂らの動き

 中西豪氏・白峰旬氏の共著「最新研究 江上八院の戦い」(日本史史料研究会)の、中西氏が担当されている「第一章 龍造寺・鍋島氏にとっての『関ヶ原』、江上八院の戦い」の中で、勝茂が領国に戻った後の、鍋島直茂らの動きにについて、次のようなことが記されています。
 「10月初旬、勝茂が率いて帰国した龍造寺・鍋島軍の兵数は7000と伝えられている。恐縮しきりの勝茂は、この軍勢のみで柳川に直行しようとしたが、直茂はそれを制して勝茂を一旦佐賀に呼び戻した」
 「龍造寺領国の約31万石に対して立花領は13万石、動員兵力の差は懸絶しており、万に一つも龍造寺・鍋島軍が敗れることはないと思われたが、検使役の黒田如水の手前、無様な戦いをする訳にはいかない。万全の態勢を整えて佐賀から出陣することになる」
 「柳川攻めは、単に上方での家康方への敵対を謝罪するためのものではなく、龍造寺領国内の問題としても重大な意味を持つものとなっていた。最悪の事態は免れたものの、勝茂の暴走が龍造寺領国を危機に曝したことは事実である。勝茂の失策で、鍋島氏の龍造寺領国執政体制の鼎の軽重が問われることになったのである。
 せっかく直茂から勝茂への権力移譲が龍造寺一門以下の家中に承認されるまでに至ったのに、このままでは鍋島氏の勢力後退に繋がりかねない」などと。
 中西氏の指摘通り、この時点で鍋島家にとって大きな危機であったことは間違いないでしょうが、この危機を招いたのは「勝茂の失策」だったという捉え方はどうでしょう。勝茂が豊臣公儀方に就いたのは、豊臣家に恩顧を受けており、また上方にいましたから、ある意味当然の選択であったのではないでしょうか。また白峰氏の見解通り、黒田如水宛鍋島直茂書状から見る限り、伏見城落城の報が入って、豊臣公儀方に思いが傾いたと考えられます。確かに、直茂は秀吉死後、家康に近寄り、家康与党になりましたが、これも白峰氏の見解通り、「内府ちかひの条々」が出されて以降、家康の公儀性が失われ、豊臣公儀方は攻勢に立ちましたから、余計その思いを強くしたのではないでしょうか。
 ところが、豊臣政権側が関ヶ原の戦いに敗れ勝茂が敗者側になるに及んで、大きく情勢が変わりました。しかし、敗報を知っても、勝茂の処分が決まるまでは、立場上は黒田如水に対しても、豊臣公儀側の姿勢を表面上は取りました。むろん、一方ではなんとか打開策はないものかと模索し、心穏やかではなかったはずですが。それが勝茂が家康に赦免され、領国に戻ってきたことによって、直茂は初めて家康与党に戻ることを決心したのではないでしょうか。

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