石田三成の実像2905 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」9 水野伍貴氏「徳川家康の戦い」7 前田利長を標的にする

 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の水野伍貴氏の「徳川家康の戦い」の中で、家康が「大老衆の排斥において、家康が最初の標的としたのは前田利長であった」と記されていますが、その背景として、「三成の失脚後、毛利・四奉行連合は事実上解体。増田長盛ら奉行衆は家康に協力的な立場をとり、毛利輝元も閏3月21日に家康と誓紙を交わして関係を改善していた(『毛利家文書』)。当時、家康と輝元は対立関係ではなかったため、家康は前田氏と対峙するにあたって輝元との連携を模索した」と説明されています。
 三成が失脚したのは、閏3月のことですが、この事件のことには、水野氏の同書では触れられていません。従来、豊臣七将による石田三成襲撃事件と考えられてきたものが、水野氏や白峰旬氏によって、石田三成に対する訴訟騒動であったと指摘されています。前田利家の死去、その後すぐの三成の失脚によって、「家康の権力は強まった」とも指摘され、家康は毛利氏と結びつくことによって、前田氏と対決しやすくなったわけで、これも家康の政権簒奪の一歩になったと考えられます。
 前田氏に本当に家康暗殺の疑いがかかったのかどうかは一次史料には記載がありませんが、そういう風聞があったことが「板坂ト斎覚書」やカンハンの「看羊録」に書かれていると水野氏の同書には記されています。家康暗殺の企てがあったということは、小説やドラマでよく取り上げられますが、事実としては確かめられないわけです。小説によっては、家康暗殺計画は、家康の自作自演だったことや、三成が知らせてきたことなどの描き方がされていますが、三成が知らせて来たということについては「看羊録」にそういう記述があります。
 家康暗殺計画があったかどうかは別として、家康が前田氏に対抗した動きを見せていることを示すものとして、水野氏の同書には次のようなことが記されています。
 「家康は同月(9月)11日に伏見から軍勢を呼び寄せて、大坂城の西の丸や大手口などを固めさせている(『北野社家日記』)」
 家康が大坂城内に徳川軍を入れたことを毛利氏に報告していたことが、10月1日付の内藤隆春書状に記されている(『萩藩閥閲録』)。また同書状によると、家康は家康と輝元が大坂に鎮座し、伏見には結城秀康と毛利秀元を置く体制を毛利氏に提案している」
 「9月21日付で島津惟新(義弘)が島津忠恒に宛てた書状によると、家康は前田利長や加藤清正が上方へ入って来られぬように迎撃態勢を整えている(『島津家文書』)。利長に対しては大谷吉治(吉継の子)と石田三成の家来一千余が越前へ配置され、清正に対しては菅達長と有馬則頼が淡路へ配置された。『綿考輯録』によると、細川忠興の領国に対しても丹波衆が押さえとして置かれたという。また浅野長政も前田氏を擁護したことにより蟄居させられている(『看羊録』)」などと。
 要するに家康は前田派大名たちに次々と手を打っているわけです。この時点で、引退していた三成は家康の意に添って動いていたものと思われます。家康が大坂城に来る時に泊まったのは、備前島の三成邸だったこと、三成は家康の求めに応じて越前に出兵していることがその証です。

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