石田三成の実像2906 図録「特別展『唐入り』の時代ー秀吉の大陸出兵と大名たちー」31 慶長3年1月17日付の小早川秀秋宛豊臣秀吉朱印状

 徳島市立徳島城博物館発行の図録「特別展『唐入り』の時代ー秀吉の大陸出兵と大名たちー」の「第2部 諸大名の『唐入り』」の中で、小早川氏に関係したものとして、慶長3年(1598)1月17日付の小早川秀秋宛豊臣秀吉朱印状が掲載されており、次のように解説されています。
 「慶長3年(1598)正月、秀吉から秀秋に宛てられた書状。小早川氏を相続した秀秋は、この慶長出兵では総大将の重責を背負うこととなる。本資料の内容は、同月初頭におこなわれた蔚山城の戦いの勝利を受けて出されたもので、蔚山をはじめとする諸城の防備を固め、兵糧・弾薬を備蓄するよう指示している。本資料には、秀吉の朱印だけでなく、花押も一緒に据えられており、興味深い。秀秋の総大将としての地位に対する秀吉の配慮だろうか。しかし、この直後に秀秋の運命は暗転する。戦闘における秀秋の軽挙を目付衆から注進された秀吉は、激怒して秀秋を召還し、筑前から越前北ノ庄への国替を言い渡す。秀秋の憤懣と悲嘆は察するに余りあるが、小早川氏転封後の筑前は豊臣直轄領として石田三成が代官支配を命じられ、大陸出兵は粛々と遂行されていくのである」と。
 中野等氏の「戦争の日本史16 文禄・慶長の役」(吉川弘文館)の中で、「慶長2年2月21日付の『陣立書』にみえる軍団構成」の表が掲載されていますが、小早川秀秋は「釜山浦城 10000人」と記されています。また秀秋が渡海するまでの行動について、次のように記されています。 
 「総大将格の小早川秀俊(のちの秀秋・秀詮)は5月22日に大坂を発ち、いったん領国の筑前に戻った後、6月29日に名護屋から朝鮮へ向かっている(釜山上陸は7月17日)」と。
 蔚山城の戦いについても、中野氏の同書に記されていますが、明・朝鮮軍が城を取り囲んで攻撃を始めたのは、12月22日からですが、その日の夜に加藤清正は城に到着し、その後日本軍の援軍が続々と到着します。翌年1月4日に激闘が繰り広げられ、城方は明・朝鮮軍を撃退します。
 図説の解説文にある「戦闘における秀秋の軽挙を目付衆から注進された秀吉は、激怒して秀秋を召還し、筑前から越前北ノ庄への国替を言い渡す」というのは通説ですが、この点に関しては異論があります。
 中井俊一郎氏の「石田三成からの手紙」(サンライズ出版)には、秀秋転封の話が起こったのは、慶長2年12月3日のことであり、蔚山城の戦いにおける秀秋の行動が問題にされたとは日付から見て考えられないという趣旨のことが記されています。こういう通説に関して、秀秋が蔚山城の戦いに関して、一兵卒のような槍働きをしたことを三成が問題視し、それが秀秋の転封につながったという捉え方がされがちですが、それは成り立たないわけです。

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