石田三成の実像2907 中西豪氏・白峰旬氏「最新研究 江上八院の戦い」50 中西氏「第一章 龍造寺・鍋島氏にとっての『関ヶ原』、江上八院の戦い」26 立花攻めにおける側近の鍋島茂里の決心 文禄の役の際は咸鏡道経略で活躍 

中西豪氏・白峰旬氏の共著「最新研究 江上八院の戦い」(日本史史料研究会)の、中西氏が担当されている「第一章 龍造寺・鍋島氏にとっての『関ヶ原』、江上八院の戦い」の中で、勝茂が領国に戻り、龍造寺・鍋島軍が立花宗茂を討とうとした時、鍋島茂里が「鍋島氏執政体制のさらなる強化を図ろうとした」と指摘され、茂里について次のようなことが記されています。
 「茂里の初名は平五郎。長らく男子に恵まれなかった直茂が、正室の陽泰院の実家・石井家から養嗣子に貰い受けたものである。茂里は初陣となった沖田畷合戦の山手での戦闘や退却戦で活躍を見せる。それ以降も秀吉の九州征伐や朝鮮出兵においても縦横に重要な働きをなした。
 勝茂の誕生により継嗣の地位は譲ったものの、養子縁組は解消されることなく直茂の女婿となっている。そして朝鮮役の際に陣代を務めた横岳氏の当主が没すると、その家臣団の要請もあって横岳領を継承し横岳鍋島家(主水鍋島家)の始祖となった。朝鮮役の陣立以来1800余名からなる鍋島茂里与を率いて成富茂安与(369名)とともに龍造寺・鍋島軍の先手を務める一方、内政面でも直茂の側近としてこれを補佐した。慶長15年に早世することがなければ、近世佐賀藩の有り様もかなりかたちを変えたものになったのではないかと思わせる逸材であった」と。
鍋島茂里は、戦いでも内政でも欠かせない存在で、大活躍したことがわかります。文禄の役では、鍋島直茂は二番隊として12000人、慶長の役では一番隊として10000人を派遣しています。文禄の役では、鍋島勢は、加藤清正・相良頼房と共に、咸鏡道を経略し、支配を進めていきますが、中野等氏の「戦争の日本史16 文禄・慶長の役」(吉川弘文館)の中に、「咸鏡道における部将配置」の表が掲載されています。その表には、鍋島茂里(平五郎)は「高原」に配置されています。鍋島直茂本陣は「咸興」に、成富十右衛門は「洪原」、他に鍋島家中は「定平」、「永興」、「永興」、「文川」、「徳原」に配置されています。中野氏の同書には、咸鏡道における地域支配の実態についても記されていますが、史料として鍋島平五郎茂里に属した田尻鑑種の著わした「高麗日記」の記述が挙げられ、その記述から次のような点が挙げられています。
 「咸鏡道でも他地域と同様、朝鮮王朝のもとの地方官吏、六伯の存在に依拠しつつ地域支配を進めたことがわかる」
 「日本側の支配は人質をとって進めるという強制的なものであったが、こうした強圧的軍政も相応の効果があったようであり、引用した記録によるかぎり年貢の徴収も士民の還住もすみやかに進んだことがわかる」と。
 もっとも、こういう「強圧的軍政も相応の効果があった」のは確かとしても、こういう日本側の姿勢が反発を呼び、義兵の蜂起につながったのも事実です。侵略行為のなにものでもなかったわけですから。文禄の役の際に秀吉に代わって渡海した三成ら奉行衆は、朝鮮半島の状況をつぶさに見て、戦端が延びきって、兵站が続かず、このままでは日本人は一人もいなくなってしまうだろうという悲観的な見通しを書状で述べていますが、的確な状況分析をしていたことがわかります。
 

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