石田三成の実像2926 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」16 水野伍貴氏「徳川家康の戦い」14 小山評定はあったとする見解の根拠3 家康が小山に留まった理由

 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の水野伍貴氏の「徳川家康の戦い」の中で、家康は諸将と軍議を開いた上、会津攻めを中止して西上することを決めた「小山評定」について、拙ブログ記事で前述したように、白峰氏が否定的な見解が示されているのに対して、水野氏は本多隆成氏と同様、肯定的な見解が示され、それに関して福島正則宛徳川家康書状は偽書とされていますが、次のような考察がされています。
 「関ヶ原大乱における正則の功績を喧伝する史料として文書そのものを捏造する理由は大いにある。福島家が捏造した文書を木村高敦が『武徳編年集成』に採録するにあたって、日付や文言の矛盾を修正(改竄)したという見方はできないだろうか」と。
 確かにそういう可能性もあり、今後、その書状については、よく検討する必要があります。
 小山評定の有無についても、さらなる議論が求められますが、少なくとも、会議の席上、福島正則が最初に発言して、「三成討つべし」と言ったというような話は、一次史料で確認できず、後世に創作された話であることは確かです。しかし、小説やドラマでは、こういう描き方が相変わらずよくされていますが、ここには福島正則が三成を嫌っていたということや、三成がこの戦いを起こした首謀者であるということが強調されており、新たな豊臣公儀体制が形成されたという捉え方が抜け落ちています。
 家康が江戸に戻ったのは8月5日ですが、それまで小山に留まった理由について、水野氏の同書では次のように指摘されています。
 「伊達政宗が白河口からの会津侵攻は『火急』であるとして促している(『伊達家文書』)ように、下野国に駐留していた軍勢の西上は東北地方の諸大名に危機感を与えるものであった。家康が小山に逗留した理由は、こうした諸大名の危機感を和らげるためにも下野国を万全の態勢に整えるところであったであろう」と。
 伊達政宗は7月21日に北目城から出陣し、24日に上杉景勝側の白石城を包囲し、翌日に開城させます。しかし、これは家康に無断でしたことで、勇み足だったと云えます。家康が会津攻めを中止したという知らせが、最上義光を通じて、伊達政宗に届いたため、政宗は会津から引き上げ、8月14日に北目城に帰還します。それからは政宗は動きませんでした。上杉景勝の家老の直江兼続が、最上義光の領地に侵攻し、まず畑谷城を攻略するのは9月13日のことです。これら伊達政宗・最上義光・上杉景勝の動きについては、「関ヶ原大乱、本当の勝者」の中で、それぞれ佐藤貴浩氏・菅原義勝氏・本間宏氏が詳述されていますので、改めて拙ブログで取り上げます。
 

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