石田三成の実像2927 図録「特別展『唐入り』の時代ー秀吉の大陸出兵と大名たちー」38 天正20年6月3日付の蜂須賀家政宛豊臣秀吉朱印軍令書 家政は忠清道経略

徳島市立徳島城博物館発行の図録「特別展『唐入り』の時代ー秀吉の大陸出兵と大名たちー」の「第2部 諸大名の『唐入り』」の中で、蜂須賀氏に関係したものとして、天正20年(1592)6月3日付の蜂須賀家政宛豊臣秀吉朱印軍令書が掲載されており、次のように解説されています。
 「天正20年(1592)に開始される『唐入り』において、家政は阿波の諸侍とともに大陸に渡海する。本資料は、秀吉から朝鮮半島に在陣中の蜂須賀家政に宛てられた軍令書である。この軍令が出された6月初頭は日本勢の攻勢が最大に達した時期であり、戦線は朝鮮半島北部にまて及んでいた。こうした状況を前提に、秀吉は諸将に対して明国への速やかな侵攻を命じている。緒戦の快進撃に酔う秀吉は、文中で明国を『長袖国』(文官の国)と侮り、『弓箭きひしき』日本の敵ではないと諸将に発破をかけている。だが、同月末ごろに明国の本格的な参戦がはじまると、その幻想は打ち砕かれ、日本勢は結局明国侵攻を果たせないまま、戦線を後退させてゆくこととなる。この明国侵攻の陣容には、もちろん蜂須賀家政の名前もみることができる。そこに示される7200人という軍役数は四国勢で最大であり、大名としての蜂須賀家の規模がうかがい知れる」と。
 この一連の軍令書は、中野等氏は「6月3日令」と名付けられ、その軍令書の中に記されているように、石田三成・増田長盛・大谷吉継が軍令書を持って渡海しました。当初は秀吉が渡海する予定でしたが、その理由について、中野氏の「戦争の日本史16 文禄・慶長の役」(吉川弘文館)の中で、天侯上の問題、後続の軍隊を運ぶ輸送力の不備、朝鮮水軍の反攻によって制海権を奪われつつあったことが挙げられています。
 この軍令書に記載されている総軍勢の数は、13万人であり、蜂須賀家政ら四国勢は「先手備」に続いての「次之備」に配置されています。同じ四国勢の長宗我部元親勢は3000人、生駒親正勢は5500人ですから、確かに四国勢の中では家政勢は最大の動員数になります。
 家政や四国勢の朝鮮半島における行動については、中野氏の同書に、次のように記されています。
 「忠清道については、蜂須賀家政が忠州を本拠に経略を進めようとしている状況であったとみてよかろう。一方の京畿道については、蜂須賀勢以外の四国の諸将が経略の担当であった。長宗我部の軍勢もいったんは慶尚道北端の聞慶に駐屯したが、毛利勢の慶尚道北部への展開をまって、慶尚道内から咸昌あたりに移動してきている」などと。
 忠清道のすぐ北に京畿道があり、京畿道の中心が首都漢城です。家政が本拠を置いた忠州は漢城の南東の位置に当たります。長宗我部勢がいた慶尚道は忠清道の東に当たり、咸昌は忠州の南にあります。

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