石田三成の実像2928 白峰旬氏「『戦功覚書』としての『本城惣右衛門覚書』(その1)ー本城惣右衛門は下級武士なのかー」5 小牧・長久手の戦いの際の伊勢攻めに加わる 

 白峰旬氏の「『戦功覚書』としての『本城惣右衛門覚書』(その1)ー本城惣右衛門は下級武士なのかー」(別府大学大学院紀要)の中で、本城惣右衛門が、天正12年の小牧・長久手の戦いにおける伊勢亀山城攻撃に従軍したことについて、次のように記されています。
 「攻める秀吉方の部将は、中川秀政、高山右近、堀尾吉晴であり、守城側は織田信雄の家臣の滝川雄利であった。攻める秀吉方の3人の部将は(中川秀政、高山右近、堀尾吉晴)が交替で、敵の城(伊勢亀山城)の攻め口を担当していた、というように城攻めの具体的状況がよくわかる。亀山城への攻撃側の戦法として、①櫓を掘り倒した、②(城内からの攻撃に対して)竹束を使用した、③城内から松明を投げて、攻城側の竹束を焼こうとしたが、『水はじき』(=水鉄砲)2つで消し止めた、などが具体的にわかる点は重要である。本城惣右衛門のそれ以前の経験として、竿に松明を付けて敵の城の櫓を焼こうとしたが、城内から『水はじき』(=水鉄砲)を出して、松明の火を消したので火は付かなかった、と記されているので、この点も(亀山城攻めではないが)当時の攻城側の戦法が具体的にわかる、という意味で重要である。本城惣右衛門は、堀尾吉晴の指図(指示)により野々口西太郎坊に付いたが、褒美は堀尾吉晴から直接もらっているので、大きな意味での指揮系統としては、堀尾吉晴の指揮下で本城惣右衛門は戦ったことになる。このように、本城惣右衛門は戦ったことになる。このように、本城惣右衛門は、堀尾吉晴からじきじきに褒美(堀尾吉晴が着ていた革衣物)を与えられているので、とても下級武士とは思えない。堀尾吉晴は、明智光秀の滅亡後、羽柴秀吉の家臣として、丹波国氷上郡六千石余を与えられ、一時、黒井城(丹波国氷上郡)に入ったので、その関係で本城惣右衛門は堀尾吉晴の指揮下で戦った、と考えられる」と。
 堀尾吉晴はこの翌年、豊臣秀次の宿老の一人になり、佐和山城主になります。三成が代官として、佐和山城を与えられるのは、その5年後の天正18年のことです。三成が正式に佐和山城主になるのは、さらにその5年後のことです。
 小牧・長久手の戦いは、秀吉と徳川家康・織田信雄との間で起こりますが、秀吉自身は犬山城、次いで楽田城に出陣し、小牧城の家康と対峙しています。三成も秀吉に従い、楽田城にいました。両軍のにらみあいが続きますが、秀次率いる別働隊が南下して、尾張を突こうとしたものの、この動きは家康側の知るところとなり、長久手で秀次隊は大敗します。もっとも、その前の岩崎の戦いでは、秀次隊が勝利しているのですが、そのことはあまり知られていません(鴨川達夫氏「長久手の戦い」)。
 この方面の戦いはこれで終わりますが、秀吉は伊勢の織田信雄を攻め、本城惣右衛門は、この伊勢攻めに堀尾吉晴の指揮下で加わっているわけてす。この伊勢攻めには、秀吉や三成は加わっていませんから、この時点での、三成と本城惣右衛門との接点はありませんでした。本城惣右衛門がこの時の働きによってじきじきに褒美を与えられていることからも、本城惣右衛門は下級武士ではなかったと白峰氏の同書で指摘されています。

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