石田三成の実像2929 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」17 水野伍貴氏「徳川家康の戦い」15 江戸にとどまっていた家康をめぐって

 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の水野伍貴氏の「徳川家康の戦い」の中で、小山から8月5日に江戸に戻った家康の動きについて、次のように記されています。
 「家康は江戸に帰還した後もすぐには西上を開始せず、西上を開始するのは岐阜城攻略の報せを受けた後の9月1日である。徳川秀忠の中山道進軍の目的が、信州上田の真田昌幸をはじめとした信州方面の西軍勢力の平定であったことが笠谷和比古氏によって指摘されている(笠谷 2000)ように、家康は近隣に位置する敵対勢力の打破や、防衛強化などによって地固めをしていく長期的な戦略を持っていたといえる」と。
 家康が江戸に滞在したのは1ヶ月近くに及びますが、この点について、通説では家康は各地の大名に書状を書き送り、多数派工作をし、それが関ヶ原の戦いでの勝利に結びついたという見方がされてきましたが、家康は新たな豊臣政権によって公儀性を剥奪され、江戸を動けなかったという新たな見方を白峰氏は指摘されています。書状を書くしか手がなかったのが実情であり、書状を書き送るという点では、豊臣公儀側でも同様だったと考えられます。もっとも、豊臣公儀側から送られた書状の多くは、徳川幕府の時代になってから、破棄されたものと考えられます。
 秀忠の動きについては、関ヶ原の戦いに間に合わなかったために、従来、真田攻略に時間がかかり過ぎた秀忠の判断ミスがあったと従来考えられてきましたが、笠谷氏の見解以来、秀忠の初期の目的は、真田など敵対勢力を打ち破ることにあったという見方が今ではすっかり定着してきているようです。家康のそういう方針が変わったのは、家康が西上を開始した時であり、急遽、美濃方面に転進するように使者を送りますが、天候の悪化などにより、関ヶ原に駆け付けることができなかったのが実情であり、秀忠一人を責められません。
 家康が秀忠遅参に怒り、会おうとしなかったというのは、諸将に対するポーズではなかったでしょうか。
 家康自身も、一度西上を延期したことが、水野氏の同書に次のように記されています。
 「尾張清須へ出張していた村越直吉が8月22日に江戸に帰着し、福島正則らが美濃国への進攻を開始するとの報せを受けると、戦局は膠着すると踏んだのか、一度西上を延期している(『伊達家文書』)。しかし、岐阜城攻略の報せを受けると『我等父子を御待尤候』(家康と秀忠の到着を待つように)と伝え(『池田家文書』)、西上を開始する」と。
 岐阜城が落城したのは、8月23日のことであり、三成らは大垣城と岐阜城を結ぶラインで、家康側軍勢を防ごうとしただけに、その拠点となる城の一つが落とされてしまったのは、大きな打撃でした。家康にとっても、このことが江戸から動くきっかけになったわけで、それだけ岐阜城を落城させた重要性をよくわかっていたことになります。

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