石田三成の実像2930 図録「特別展『唐入り』の時代ー秀吉の大陸出兵と大名たちー」39 文禄2年7月12日付の蜂須賀家政宛徳川家康書状 第二次晋州城の戦いの直後に出されたもの

 徳島市立徳島城博物館発行の図録「特別展『唐入り』の時代ー秀吉の大陸出兵と大名たちー」の「第2部 諸大名の『唐入り』」の中で、蜂須賀氏に関係したものとして、文禄2年(1593)7月12日付の蜂須賀家政宛徳川家康書状が掲載されており、次のように解説されています。
 「徳川家康から蜂須賀家政に宛てられた書状。第二次晋州城の戦いの直後にあたる文禄2年(1593)7月に発給されたものと考えられる。大陸出兵に際し、家康は自らが渡海することはなかったが、秀吉とともに肥前名護屋に下向していた。内容は病気の家政を気遣うとともに、秀吉の意向によって医師の一鴎軒が派遣されることを伝えている。後に姻戚関係を結び、密接な結びつきを持つに至る家康と家政だが、かなり早い段階から両者の交流が存在したことがうかがい知れる」と。
 第二次晋州城の戦いは、前述したように、明使との和平交渉と併行して行われていますが、日本軍の総力戦とも云うべきものでした。三成や大谷吉継の奉行衆も加わっています。三成ら奉行衆は、明使を名護屋に送り届け、また迎え入れるなどの任務も、この戦いの間にしていますから、相当忙しかったものと思われます。日本軍が晋州城を取り囲んだのは6月21日からで、29日に陥落させます。中野等氏の「戦争の日本史16 文禄・慶長の役」(吉川弘文館)に掲載されている「文禄2年5月20日付の豊臣秀吉朱印『覚』による布陣計画」によれば、蜂須賀家政は
生駒親正と共に「から嶋(巨済島)請け取り衆」に組み込まれ、兵力は「4500人」です。
 もっとも、この時点で、家康が家政に書状を出しているのは、秀吉の意向を受けてのことでしょうし、これをもって家政が家康派の一員であったと見なすことはできないでしょう。
 家政が豊臣政権への不満を募らせたのは、慶長の役の際に戦いに消極的だとして処分を受けたことに端を発したものと思われます。秀吉の死後、家政は家康に接近をはかり、婚姻関係を結ぶのもその一環だったのでしょう。家政の処分が撤回されたのは、三成が奉行職を解かれて佐和山に隠居した直後のことで、五大老連署状が出されます。このことからすれば、三成ら奉行衆は、秀吉によって出された家政らの処分をやむなしと考えていたのでしょうし、それを撤回する気はなかったものと思われます。もっとも、三成個人の思いとしては、朝鮮侵略の無謀性がよくわかっているだけに、家政らの思いはよくわかっていたはずです。しかし、秀吉の意向を踏まえた豊臣政権の決定事項を変えることはできませんでしたし、そこに三成の苦衷があったと考えています。しかも、これも前にも述べたように、家政らへの処分が決まった時には、三成は上方にはまだ戻っていなかったのではないでしょうか。

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