石田三成の実像2938 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」20 水野伍貴氏「徳川家康の戦い」18 奉行衆が有する正当性は、強大化した家康の実力に抗えなかったとする見解

白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の水野伍貴氏の「徳川家康の戦い」の中で、「関ヶ原大乱は、家康にとって誤算の連続であったと指摘されていることは前述しましたが、それについて次のようにまとめられています。
 「豊臣秀頼の意思を代弁する三奉行が西軍に味方したことによって、理論上、三成ら西軍は『公儀』となり、一方の家康は、三奉行が発した檄文と『内府ちがひの条々』によって会津征討の正当性を奪われたことになる。しかし、会津征討軍から離脱したのは、真田昌幸などわずかにとどまり、依然として家康は諸大名の支持を失ってはいなかった。関ヶ原大乱のときには、奉行衆が有する正当性は、強大化した家康の実力に抗えるものではなかったのである。毛利と宇喜多の二大老や三奉行の蜂起は、家康にとって望まざるものであったが、結果的に家康が関ヶ原大乱に勝利したことによって、家康の覇権確立を早めることになったのである」と。
 家康弾劾状である「内府ちかひの条々」によって、家康の公儀性が剥奪され、三成も加わった二大老・四奉行による新たな「豊臣公儀」が形成されたとするのは、白峰氏の見解ですが、水野氏もその見解をおおむねうべなわれていることになります。公儀性を奪われた家康の方が結果的に勝利を得た要因については、改めて検討する必要があると思いますが、「強大化した家康の実力」と水野氏は主張されているわけです。確かに、秀吉の死後、家康は豊臣政権の大老として存在感を示し、特に三成が奉行職を解かれて引退してからは、徐々に専横化し、前田氏や前田派の大名たちを屈服させるなどして、五大老五奉行制の有名無実化をはかっていますし、上杉攻めもその一環でした。三成らの挙兵によって新たな豊臣公儀体制が作られたものの、家康に従って会津攻めに参加した諸大名がほとんど家康側に就いた理由については、水野氏の見解通りか、その他の要因もあるのか、さらなる検討が必要だと思われます。
 「毛利と宇喜多の二大老や三奉行の蜂起は、家康にとって望まざるものであった」という見解はその通りだと思いますし、家康は有力大名の個別撃破を考えており、会津攻めもその一環であり、三成などの挙兵は想定外だったという水野氏の見方に、私も賛同します。
 「結果的に家康が関ヶ原大乱に勝利したことによって、家康の覇権確立を早めることになった」という見解もその通りで、わずか3年後には家康は江戸幕府を開いたわけです。もっとも、関ヶ原大乱で福島正則・黒田長政・藤堂高虎をはじめとする豊臣系武将が戦功を挙げたため、大幅加増をせざるをえなかったのは、家康にとって大きな誤算だったはずです。

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