石田三成の実像2939 図録「特別展『唐入り』の時代ー秀吉の大陸出兵と大名たちー」42 慶長2年(1597)9月付の慶尚道霊山宛蜂須賀家政等六名連署榜状 朝鮮の両班や士大夫と一般民衆の間に楔をうちこんで支配しようとする

 徳島市立徳島城博物館発行の図録「特別展『唐入り』の時代ー秀吉の大陸出兵と大名たちー」の「第2部 諸大名の『唐入り』」の中で、蜂須賀氏に関係したものとして、慶長2年(1597)9月付の慶尚道霊山宛蜂須賀家政等六名連署榜状が掲載されており、次のように解説されています。
 「宇喜多秀家を大将とする、慶長出兵の『左軍』に属する諸将によって作成された定書。その内容は、同月に全羅道井邑においておこなわれた、目付衆を含む合議で確認された事項に基づくもの。百姓・土民の村落への帰住を推進する一方で、『上官』(朝鮮の上流階級である士大夫・両班など)に対しては容赦ない殺戮が標榜されている。これは、彼ら『上官』を指導者とする朝鮮義兵の存在が、それだけ日本勢にとって脅威てあったことの裏返しといえる。なお、本資料が発給された霊山の支配を担当するのは文中に登場する鍋島直茂であるが、目付衆は家政ら諸将にも連署させることにより、その治安回復に連帯責任を負わせた」と。
 この連署榜文は、中野等氏の「文禄・慶長の役」(吉川弘文館)の中でも引用され、次のように解説されています。
 「告知された内容をみると、一般の朝鮮民衆(土民・百姓)に居邑への還住を促す一方、『上官』たるものに対しては本人はもちろん妻子・従僕にいたるまて仮借ない殺戮が謳われ、居宅についても焼き払うとしている。妻子や居宅に言及しているところから、『上官』とは朝鮮の両班や士大夫、あるいは中央から派遣された吏僚などを想定したものであろう。ここで前段における朝鮮義兵の存在を想起されたい。その中核を担ったのは在地の両班・士大夫層であった。彼らと一般民衆との間に楔をうちこみ、指導者層を根絶やしにすることで義兵活動のような反抗の芽を摘もうとしたのである。一般の朝鮮民衆には、彼らに関する情報の提供を促し、その一方でこの布告以後、還住に応じない場合には徹底した殺戮を行うとしている。最後の箇条は、日本側の将卒が朝鮮民衆に対していわれない危害を加えた場合の対処を示している。井邑会議で、全羅道での制圧担当地域、およびその後に予定される慶尚道の沿岸部での処点形成地域を割り振られた諸将は、当該郡名を記された『榜文』を携さえて各地に展開したのである。『榜文』は、朝鮮士民の目に触れるべく各地で掲げられることになる」と。
 日本側は、朝鮮を支配するに当たって、「上官」と民衆との離間をはかり、民衆の蜂起を抑え込もうとしたわけですが、反発も強くそれだけ支配することには相当苦労があったことがよくうかがえます。文禄の役以上に慶長の役は悲惨な状況でした。殺戮した朝鮮人の鼻を大量に日本に送るという残酷なこともしています。家政に与えられた任務は全羅道の制圧ですが、目付衆によって慶尚道にも関わるように命じられたのは、家政にとっては心外だったかもしれず、それが目付衆への不満につながっていった可能性もあります。

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