石田三成の実像2940 白峰旬氏「『戦功覚書』としての『本城惣右衛門覚書』(その1)ー本城惣右衛門は下級武士なのかー」9 明智光秀方の「しめ」城攻めに加わる  付記・秀吉の中国攻め2 上月城の凄惨な落城

白峰旬氏の「『戦功覚書』としての『本城惣右衛門覚書』(その1)ー本城惣右衛門は下級武士なのかー」(別府大学大学院紀要)の中で、本城惣右衛門は、天正6年から7年の間と比定される明智光秀方の「しめ」城攻めに加わっていることが記されており、この戦いでも明智方ではなく、敵として戦ったことがわかりますが、この戦いの記述について次のように解説されています。
 「本城惣右衛門が属した軍勢が、八上郡(丹波国多紀郡八上ヵ)内『しめ』(現在地は不明)という城を攻撃した。そのため明智光秀が荒木氏綱を置いた大山城(=現在の丹波篠山市大山など)から援軍200~300が来て逆襲してきた。荒木氏綱の軍勢人数は200~300程に見えたが、敵(=荒木氏綱の軍勢)を攻撃して、本城惣右衛門は首取りをした。この戦いでは、荒木氏綱が明智方になっている点に注意したい。(中略)荒木氏綱は明智方と敵対していたが、居城である荒木城(細工所城)は、明智方の攻撃により、天正6年4月に落城したので、荒木氏綱が明智光秀に従ったのは、それ以降と考えられる。よって、この戦いの時期は、天正6年4月~同7年8月(明智光秀による丹波攻略が終了)までの期間に比定できる。この戦いでは本城惣右衛門は、赤井忠家の指揮下に入っている」と。
 要するに、明智光秀に敵対していた荒木氏綱が光秀に降伏した後、本城惣右衛門はいまだ光秀に敵対していた赤井忠家の指揮下に入り、「しめ」城を攻撃した際、荒木氏綱の軍勢と戦い、首取りという功績を挙げたわけです。この時、光秀に敵対していた勢力として、赤井氏の他、波多野氏がいました。
 一方、秀吉が中国攻めを開始したのは、前述したように、天正5年のことですが、まず播磨攻略に取りかかり、同年12月3日、宇喜多直家の属城である七条城(上月城)を陥落させます。この戦いのことを記した12月5日付の下村玄蕃助宛秀吉書状が、染谷光廣氏の「秀吉の手紙を読む」(吉川弘文館)の中が紹介され、次のように解説されています。
 「敵方を懲らしめるために、女子供二百余人を、備前・美作・播磨三か国の境目に、子供は串にさし、女は磔物(はたもの)にかけて、並べ置いた、とありますから、信長生存中のこの時期の秀吉の戦いぶりも、凄惨だったというほかはありません」と。
 この時期の三成については、前述したように、史料には全く出てきませんが、秀吉の側近として、この戦いにも参加していたはずですから、この凄惨な場面も見ていたに違いありません。それを見て三成がどう思ったかは、気になるところです。
 
 

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