石田三成の実像2942 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」22 本間宏氏「上杉景勝の戦い」2 会津転封をめぐって2 秀吉死後の景勝上洛

白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の本間宏氏の「上杉景勝の戦い」の中で、慶長3年1月10日、上杉景勝が会津に転封になったことについて、さらに次のような見解も示されています。
 「一方、景勝に従ってきた在来の国衆たちは、会津移封によって先祖伝来の土地から切り離され、新たな知行地を景勝から拝領することとなった。これにより景勝と国衆の間には明確な主従関係が成立した。嗣子に恵まれていなかった景勝にとって、『御館の乱』の再燃を避ける支配体制強化は必須課題であった。越後から会津への移封は、豊臣政権と景勝の利害が一致したものだったのである」と。
 転封によって、大名と国衆の間に明確な主従関係が成立したのは、上杉家に限らず、他の大名家でも同様だったと思われます。豊臣政権が、転封を積極的に進めたのは、大名とその土地の結びつきを切り離すためでもありましたが、大名と国衆との主従関係を明確にして、大名基盤を強化するためでもありました。
 会津転封以降の景勝の動向について、本間氏の同書では次のように記されています。
 「景勝はこの年の3月に会津入りを果たしたものの、豊臣秀吉が8月に死去したため、9月には再び上洛の途に就いた。景勝は豊臣政権を支える五大老(同時代史料に『大老』の語は用いられないが、通例に従う)の一人として、他の大老とともに政務に従事することとなった」と。
 尾下成敏氏の「上杉景勝の居所と行動」には、景勝の会津入りについて、次のように記されています。
「『御年譜(景勝)』は、3月3日、大坂城の秀吉の許へ出仕した後、6日、伏見を発ち、19日、会津城へ入城したと記している。しかし、3月3日、秀吉が山科醍醐にいた事実を踏まえるなら、かかる記述は要検討といわざるを得ない」と。
 いわゆる「醍醐の花見」の日は3月15日ですが、秀吉はその準備にたびたび醍醐を訪ねており、3月3日もそうです。そういうことから、3月3日に景勝が大坂城の秀吉を訪ねることはできるはずはなく、「御年譜」の記述に疑義が抱かれ、景勝の会津に入った日についても確定できないというわけです。
 ちなみに、「醍醐の花見」には、三成も参加していません。会津に赴いて、兼続と共に転封作業に当たっていたからです。
 景勝の会津出発については、尾下氏の同書に次のように記されています。
 「9月、景勝は上洛の途に就く。同月中旬には会津城を出発したらしい。景勝の会津出発について、『当代』は16日、『略記』は翌17日の出来事と伝える」などと。
 要するに、景勝は半年しか領地にいられなかったわけで、秀吉が死ななかったら、腰を落ち着けて領国運営に当たることができたに違いありません。それだけ秀吉の死が、景勝に与えた影響は少なくなかったということになります。 
 

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 6

ナイス
かわいい かわいい かわいい かわいい かわいい

この記事へのコメント