石田三成の実像2950 白峰旬氏「『戦功覚書』としての『本城惣右衛門覚書』(その1)ー本城惣右衛門は下級武士なのかー」12 山家城攻めに、明智方の一員として戦う 付記・秀吉の中国攻め5 鳥取城攻め・秀吉が本陣を置いた太閤ヶ平の7年前の現地説明会

 白峰旬氏の「『戦功覚書』としての『本城惣右衛門覚書』(その1)ー本城惣右衛門は下級武士なのかー」(別府大学大学院紀要)の中で、本城惣右衛門は、天正9年の明智光秀方による山家城攻めに、明智方の一員として戦ったことが記されていますが、この戦いの記述について次のように解説されています。
 「丹波国天田郡(何鹿【いかるが】郡ヵ)の山家【やまが】城(=甲ケ峰城=現在の京都府綾部市広瀬町山家。城主は和久氏)攻め。山家城主の和久氏は天正9年(1581)に明智光秀から城破却を命じられたが、寺であると主張して拒否し、成敗された。よって、天正9年の山家攻めに関するものと考えられる。本城惣右衛門は明智軍に属して山家城攻めにおこなったことになる。この戦いでは本城惣右衛門は赤井忠家の指揮下に入っているので、赤井忠家は居城の黒井城が明智軍に攻撃されて落城した天正7年8月よりあとは明智光秀に属したことがわかる」と。
 要するに、本城惣右衛門は、赤井忠家が明智光秀に降伏した後、明智方に属したわけです。この翌年の本能寺の変の際、本城惣右衛門は明智方に属して、本能寺を攻め、そのことがこの覚書に記されているため、貴重な史料となっています。
 一方、中国攻めをしていた秀吉は、天正9年6月25日に因幡の鳥取城攻めを始め、10月25日に落城させています。この鳥取城攻めにも、三成は側近として参加しているはずです。それを示す史料は残っていませんが。
 拙ブログに以前記しましたが、鳥取城攻めの際、秀吉が本陣を置いた太閤ヶ平を、7年前に訪ねたことがあります。これは「鳥取城フォーラム」の一環で、午前中に講演とシンポジウム、午後に太閤ヶ平現地見学会が行われ、説明を受けながら、本陣跡を歩きました。最高5メートルぐらいの土塁に囲まれた一辺50メートルほどの方形状区画で、周囲には堀があり、土塁上には櫓台が配置されています。この大規模な造りは、秀吉個人のものではなく、信長を迎え入れるための陣であったと考えられると説明されていました。三成も本陣にいたはずですから、特別な感慨が湧いたことを今でもよく覚えています。
 太閤ヶ平から、久松山の鳥取城までわずか1.6キロしか離れていず、秀吉はさらに久松山を取り囲むように70以上の陣城を築きました。陣と陣をつなぐ大型の堀を設けましたし、また平野部分だけでなく、海上も封鎖しました。そうすることで、鳥取城を徹底的に兵粮攻めにしたわけです。鳥取城には、物資や援軍が届かなかったため、城内は食べるものもなく、飢餓状態に陥りました。城主の吉川経家は降伏し、自分が切腹することによって、部下の命を救いました。

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