石田三成の実像2941 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」21 本間宏氏「上杉景勝の戦い」1 会津転封をめぐって1 

 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の本間宏氏の「上杉景勝の戦い」の中で、慶長3年1月10日、上杉景勝が会津に転封になったことについて、まず次のように解説されています。
 「豊臣政権が景勝に期待したものは関東と奥羽の安寧であり、具体的には徳川氏と伊達氏、最上氏を牽制する役割であったと考えられる」と。
 この見解は、妥当なものだと思われますし、三成が直江兼続と協力して、転封をスムーズに進めたのも、そのためであったと考えられます。2月16日に、会津領で三成は兼続と連署して禁制を発しています。さらに、3月4日に、二人は連署して、蒲生家重臣の蒲生郷安の引き移りに関わる伝馬・人足の規定を定めています。この連署状は中野等氏の「石田三成伝」(吉川弘文館)の中で、原文と現代語訳が掲載され、次のように解説されています。
 「蒲生郷安(四郎兵衛尉)は出羽米沢城を預かる重臣であった。この転封にあたって、直江兼続(山城守)と三成(治部少輔)が連署して、人足・伝馬の賦課を進めている。簗沢村以下は出羽国長井郡の村々であり、人足・伝馬には新封地たる下野国までの輸送が命じられた。蒲生郷安に対してのみ、かかる対応を示したとも思えないので、他の重臣についても同様の手配を行なって、伝馬・人足の徴発を定めたと考えてよかろう」と。
 それまで会津を治めていた蒲生家は宇都宮に転封になり、そこに上杉家が入ったわけですが、兼続と三成は蒲生家の転封を迅速に進めるために配慮していたことがわかります。
 中野氏の同書には、三成だけでなく、三成の家臣たちも奥州に下り、領国移譲に伴う諸準備を進めていたことも明らかにされています。
 さらに三成は、上杉領だった越後に赴き、4月15日に越後国刈羽郡藤井堰に関する条書を発しています。この条書も、中野氏の同書に原文と現代語訳が掲載され、次のように解説されています。
 「この三成条書は、上杉時代に行なわれた先例を遵守すべきことを改めて確認した内容になっており、新規のものではない。とはいえ、長くこの地に君臨した上杉家の転封をうけ、在地の動揺を防ぐ上で大きな意義を有したと考えられる。これら一連の事実から、上杉家の転封は、石田家中との共同で進められたことがわかる」と。
 ここまで三成が上杉家に梃子入れしているのは、それだけ豊臣政権が上杉家に期待するものが大きかったからでしょうし、また三成が上杉家の取次を長く務め、特に兼続との親しい関係があったからでもあったでしょう。

 

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