最初の勤務校だった大阪府立茨田高校の周辺散策6 今も変わらぬ中央環状線の信号・密かに進めた教職員組合作り

 茨田高校の周辺を散策して、鴻池新田駅へ向かいましたが、田んぼはなくなっていたものの、寝屋川を越えて大阪中央環状線の広い道路を渡らねばならないのは、当時と一緒でした。二つ信号があって、走って一気に渡らねばなりませんでした。ゆっくり歩いていると、次の信号でひっかかり、青に変わるまで三分ほど待たねばならないからです。その状況は、今も変わって…
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石田三成の実像2946 白峰旬氏「『戦功覚書』としての『本城惣右衛門覚書』(その1)ー本城惣右衛門は下級武士なのか…

 白峰旬氏の「『戦功覚書』としての『本城惣右衛門覚書』(その1)ー本城惣右衛門は下級武士なのかー」(別府大学大学院紀要)の中で、本城惣右衛門は、天正7年に明智光秀方になった村の上にある城への攻撃に加わっていることが記されており、この戦いでも明智方ではなく、敵として戦ったことがわかりますが、この戦いの記述について次のように解説されています…
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最初の勤務校だった大阪府立茨田高校の周辺散策5 白内障でみんなに迷惑をかけた3年間・「安田」近辺でよく通っていた飲…

 茨田高校に勤務していた6年間のうち、3年間は白内障を患っていたため、その間はみんなに迷惑をかけ、あまり学校に貢献できなかったのを今でも申し訳なく思っています。答案の字が読めず、採点の丸付けを教科の先生方に手伝ってもらいましたし、教科書の字もよく読めなかったため、現代国語の授業は持てず、古典の授業ばかりを担当させてもらいました。古典なら…
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石田三成の実像2945 図録「特別展『唐入り』の時代ー秀吉の大陸出兵と大名たちー」43 蔚山城の戦いを描いた「朝鮮…

 徳島市立徳島城博物館発行の図録「特別展『唐入り』の時代ー秀吉の大陸出兵と大名たちー」の「第2部 諸大名の『唐入り』」の中で、蜂須賀氏に関係したものとして、明治19年に描かれた「朝鮮軍陣図屏風」が掲載されており、次のように解説されています。  「慶長2年(1597)12月22日、加藤清正の指揮で築城が進められていた慶尚道蔚山城に、明軍…
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最初の勤務校だった大阪府立茨田高校の周辺散策4  当時は田園地帯だった地に立つ大阪市立茨田小学校・若い教員同士の交流

 大阪府立茨田高校の南に、今は大阪市立茨田小学校が建っていますが、私が勤務していた時は、そのあたりは田園地帯でした。もっとも、今も鴻池新田駅からの通学路になっていますが。茨田小学校は1998年に開設されただけに、校舎も新しく瀟洒なたたずまいでした。  茨田高校に勤務したのは六年間でしたが、教員としていろいろと学ばせてもらいました。若い…
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受贈御礼 高橋陽介氏「本多隆成氏の『「小山評定」再々論 家康の宇都宮在陣説を中心に』を拝読して」1 石田三成の実像…

 高橋陽介氏よりご論考「本多隆成氏の『「小山評定」再々論 家康の宇都宮在陣説を中心に』を拝読して」をご恵贈いただきました。この場を借りてお礼申し上げます。このご論考は、以前お贈りいただき、拙ブログでも紹介させていただいた書評報告を再構築して書かれたもので、織豊期研究会発行の「織豊期研究 第22号」に掲載されています。  慶長5年(16…
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最初の勤務校だった大阪府立茨田高校の周辺散策3 赴任前の教科の打ち合わせと入試の手伝い・当時はなかった南側の通用門

 大阪府立茨田高校に赴任したのは1976年のことですが、3月8日に国語科の打ち合わせがあり、国語科の先生方と初めて顔合わせしました。総勢は八名であり、前年から勤めているのは四人で、しかも新しく入った四人は私も含めていずれも新卒でした。教員の平均年齢は二十代でしたが、当時、新設校はどこも似たような年齢構成だったのではないでしょうか。  …
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石田三成の実像2943 白峰旬氏「『戦功覚書』としての『本城惣右衛門覚書』(その1)ー本城惣右衛門は下級武士なのか…

 白峰旬氏の「『戦功覚書』としての『本城惣右衛門覚書』(その1)ー本城惣右衛門は下級武士なのかー」(別府大学大学院紀要)の中で、本城惣右衛門は、天正6年から7年の間と比定される明智光秀方の金山(きんざん)城攻めに加わっていることが記されており、この戦いでも明智方ではなく、敵として戦ったことがわかりますが、この戦いの記述について次のように…
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最初の勤務校だった大阪府立茨田高校の周辺散策2 創立二年目に赴任・内々の通知が校長からあったのは1月9日・正式の内…

 大阪府立茨田高校のたたずまいはあまり変わっていませんでした。校舎の外装は私が勤務していた時と違っていましたが。一番変わっていたのは周囲の景色です。学校の周囲は四十年前は田畑が多かったのですが、今は住宅などが建ち並んでいて、田畑は見当たらず、隔世の感がありました。正門に行く道も、両側に住宅がずらりと建っていて、その奥に校舎が見えるという…
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石田三成の実像2942 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」22 本間宏氏「上杉景勝の戦い」2 会津転封をめぐっ…

白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の本間宏氏の「上杉景勝の戦い」の中で、慶長3年1月10日、上杉景勝が会津に転封になったことについて、さらに次のような見解も示されています。  「一方、景勝に従ってきた在来の国衆たちは、会津移封によって先祖伝来の土地から切り離され、新たな知行地を景勝から拝領することとなった。これにより景…
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最初の勤務校だった大阪府立茨田高校の周辺散策1 徳庵駅から四十年ぶりに歩く 商店街や寝屋川に架かる橋に当時をしのぶ

教員時代、最初の勤務校であった大阪府立茨田高校の周辺をほぼ四十年ぶりに歩き回ってきました(創立十周年記念の時に一度訪ねたことはありますが)。校内も見てみたかったところですが、コロナ禍のもとでは、仕方ありません。茨田高校へ行くには三つのコースがあります。高校に一番近いのは、バス停の「安田」というところで、そこから歩いて五分程で行けますが、…
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石田三成の実像2941 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」21 本間宏氏「上杉景勝の戦い」1 会津転封をめぐっ…

 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の本間宏氏の「上杉景勝の戦い」の中で、慶長3年1月10日、上杉景勝が会津に転封になったことについて、まず次のように解説されています。  「豊臣政権が景勝に期待したものは関東と奥羽の安寧であり、具体的には徳川氏と伊達氏、最上氏を牽制する役割であったと考えられる」と。  この見解は、妥…
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京都探訪323 藤原時平の陵墓と言われている宇治陵35号・宇治よりも周辺地域の生産量が多い宇治茶

  歩いて十分余りの御蔵山商店街の肉屋さんまで、週末限定で特価で販売されている牛肉と豚肉のセットを買いに行くことが時々あります。またJR六地蔵駅や京阪六地蔵駅へ歩いて行く場合も、商店街の中を経由して行くことが少なくありません。その道の途中に宇治陵の一つである35号陵墓があります。住宅街の中なので、見逃しやすいところにあるのですが。  …
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石田三成の実像2940 白峰旬氏「『戦功覚書』としての『本城惣右衛門覚書』(その1)ー本城惣右衛門は下級武士なのか…

白峰旬氏の「『戦功覚書』としての『本城惣右衛門覚書』(その1)ー本城惣右衛門は下級武士なのかー」(別府大学大学院紀要)の中で、本城惣右衛門は、天正6年から7年の間と比定される明智光秀方の「しめ」城攻めに加わっていることが記されており、この戦いでも明智方ではなく、敵として戦ったことがわかりますが、この戦いの記述について次のように解説されて…
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漢字の旧字体を使っていた韓国・今でも使っている台湾・台湾で高い短歌人気

2002年に韓国に行った折に、国立晋州博物館を見学しましたが、日本語版の図録があったので、買い求めました。文禄・慶長の役(韓国では壬辰倭乱・丁酉再乱)に関する資料がいろいろ掲載され、その解説がされていますが、驚いたのは、漢字が旧字体となっていることでした。たとえば、「対馬」は「對馬」、「応射」は「應射」、「変化」は「變化」というように…
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石田三成の実像2939 図録「特別展『唐入り』の時代ー秀吉の大陸出兵と大名たちー」42 慶長2年(1597)9月付…

 徳島市立徳島城博物館発行の図録「特別展『唐入り』の時代ー秀吉の大陸出兵と大名たちー」の「第2部 諸大名の『唐入り』」の中で、蜂須賀氏に関係したものとして、慶長2年(1597)9月付の慶尚道霊山宛蜂須賀家政等六名連署榜状が掲載されており、次のように解説されています。  「宇喜多秀家を大将とする、慶長出兵の『左軍』に属する諸将によって作…
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韓国ドラマ探訪307 「SKYキャッスル〜上流階級の妻たち〜」受験社会や上流階級の独善的な考え方に対する批判・漢字…

韓国の受験戦争の激しさは、日本以上だと言われますが、そのことがよくうかがえる韓ドラに「SKYキャッスル〜上流階級の妻たち〜」があります。「SKYキャッスル」は高級住宅街の名前ですが、ここに住む医者や教授らの夫妻が、自分の子供たちをソウル大学に合格させようと躍起になる物語です。各家庭の抱える問題や、入試コーディネーターの正体が次第に明ら…
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石田三成の実像2938 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」20 水野伍貴氏「徳川家康の戦い」18 奉行衆が有す…

白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の水野伍貴氏の「徳川家康の戦い」の中で、「関ヶ原大乱は、家康にとって誤算の連続であったと指摘されていることは前述しましたが、それについて次のようにまとめられています。  「豊臣秀頼の意思を代弁する三奉行が西軍に味方したことによって、理論上、三成ら西軍は『公儀』となり、一方の家康は、三奉…
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音楽探訪46 1980年10月5日の「山口百恵さよならコンサート」・拙文「山口百恵と短歌」 

 1980年10月5日に日本武道館で行われた「山口百恵さよならコンサート」をテレビで放送していたので、録画して見ました。当時、実際テレビでも見ていましたが、ちらちらと見た程度で、全体を見たのは初めてです。コンサートを見たことは、当日の日記にも記していますが、感想までは書いていません。  今回、改めて山口百恵さんのカリスマ的なすごさに感…
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石田三成の実像2937 白峰旬氏「『戦功覚書』としての『本城惣右衛門覚書』(その1)ー本城惣右衛門は下級武士なのか…

 白峰旬氏の「『戦功覚書』としての『本城惣右衛門覚書』(その1)ー本城惣右衛門は下級武士なのかー」(別府大学大学院紀要)の中で、本城惣右衛門は、天正3年(1575)から7年の間と比定される明智光秀方になった長田(おさだ)村攻めに加わっていることが記されており、この戦いでも明智方ではなく、敵として戦ったことがわかりますが、この戦いの記述に…
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音楽探訪46 京都新祝祭管弦楽団の演奏会2 ドボルザークの自筆譜に基づいた「新世界より」

  滋賀県立芸術劇場びわ湖ホールでの京都新祝祭管弦楽団の演奏会でドボルザークの曲が選ばれたのは、去年海外演奏をしたプラハにゆかりの深い作曲家であったことも関係しています。交響曲第9番「新世界より」の演奏は、ドボルザークの自筆譜に基づき、音楽監督の考察も加えたもので、いつもと微妙に違う音の響きでしたが、これがドボルザークの本来、意図したも…
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石田三成の実像2936 図録「特別展『唐入り』の時代ー秀吉の大陸出兵と大名たちー」41 慶長2年11月11日付の加…

徳島市立徳島城博物館発行の図録「特別展『唐入り』の時代ー秀吉の大陸出兵と大名たちー」の「第2部 諸大名の『唐入り』」の中で、蜂須賀氏に関係したものとして、慶長2年(1597)11月11日付の加藤嘉明宛蜂須賀家政書状が掲載されており、次のように解説されています。  「慶長出兵の際、家政が同じ四国衆の加藤嘉明に宛てた書状。熊谷直盛ら目付衆…
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音楽探訪45 京都新祝祭管弦楽団の演奏会1・開演前に湖畔で偶然出会う

 京都新祝祭管弦楽団の演奏会が4日に滋賀県立芸術劇場びわ湖ホールで開催され、大阪府立住吉高校の元同僚の福井秀紀さんが、ビオラ奏者として出演されるので、見に行ってきました。  曲目はドボルザークの交響曲第8番と第9番「新世界より」でしたが、80分の公演時間中、途中休憩はないこと、座席の間隔は空けられていること、舞台でも楽団員はいつもより…
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石田三成の実像2935 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」19 水野伍貴氏「徳川家康の戦い」17 家康にと…

 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の水野伍貴氏の「徳川家康の戦い」の中で、「関ヶ原大乱は、家康にとって誤算の連続であったと指摘され、具体的には次のように記されています。  「家康の方針は大老衆一人ひとりを豊臣公儀ら孤立させ、排斥していくものであり、毛利輝元と宇喜多秀家が上方で挙兵し、大老衆を三人同時に相手にすることな…
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旅行記237 1980年の友達との初めてのフランス旅行13 帰りの南回りの飛行機は2日がかり・ソウルで一泊、市内観…

1980年夏のN君との初めてのフランス旅行の際、帰りの飛行機はスイスのチューリッヒ発の大韓航空でしたが、南回りだったので相当時間がかかりました。途中、バーレーン、マニラに寄り、ソウルで一泊しました。ソウルに着いたのは夜で、大阪に帰る便がないため、大韓航空で用意してくれたホテルに泊まりました。翌日、ソウルの宮殿、土産店などに案内され、午後…
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石田三成の実像2934 白峰旬氏「『戦功覚書』としての『本城惣右衛門覚書』(その1)ー本城惣右衛門は下級武士なのか…

 白峰旬氏の「『戦功覚書』としての『本城惣右衛門覚書』(その1)ー本城惣右衛門は下級武士なのかー」(別府大学大学院紀要)の中で、本城惣右衛門は、天正6年の明智光秀の荒木城(細工所城)攻めに対する戦いに加わっていることが記されており、この戦いでも明智方ではなく、敵として戦ったことがわかりますが、次のように述べられています。  「丹波国『…
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旅行記236 1980年の友達との初めてのフランス旅行12 フランス語圏のジュネーブ、ドイツ語圏のチューリッヒにそ…

 1980年夏のN君との初めてのフランス旅行では、結局、フランスに18泊し、グルノーブルからスイスのジュネーブに入りました。入国検査は、パスポートを見せるだけの簡単なものでした。まず両替しましたが、700フランが270スイスフランほどでした。スイスの物価の高さは随所で感じました。まずホテルを決め、昼食を取ってから、市内観光しました。イギ…
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石田三成の実像2933 図録「特別展『唐入り』の時代ー秀吉の大陸出兵と大名たちー」40 「阿淡年表秘録」 文禄の役…

 徳島市立徳島城博物館発行の図録「特別展『唐入り』の時代ー秀吉の大陸出兵と大名たちー」の「第2部 諸大名の『唐入り』」の中で、蜂須賀氏に関係したものとして、「阿淡年表秘録」が掲載されており、次のように解説されています。  「本資料は、蜂須賀家政が阿波に入国する天正13年(1585)から、幕末の天保14年(1843)まで、258年間にお…
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旅行記235 1980年の友達との初めてのフランス旅行11 冬季五輪の施設が残るグルノーブル・山上のバスチーユ要塞…

1980年夏のN君との初めてのフランス旅行の際、グルノーブルに泊まるのは当初の予定になかったことですが、グルノーブルは一度訪ねてみたいところでした。1968年に冬季オリンピックが開かれ、その時の記録映画「白い恋人たち」を見て、その世界に引き込まれました。フランシス・レイのテーマ曲の美しく甘い、心に沁みるメロディーが、映像を見事に引き立て…
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石田三成の実像2932 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」18 水野伍貴氏「徳川家康の戦い」16 徳川氏関係者…

 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の水野伍貴氏の「徳川家康の戦い」の中で、関ヶ原の戦いにおける家康軍について、次のような指摘がされています。  「家康が美濃赤坂(大垣市赤坂町)に着陣したのは本戦前日の9月14日であり、これまで幾多の前哨戦か行われていたが、家康は本戦まて采配をまったく振っていなかったのである。結果的に…
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