石田三成の実像2956 白峰旬氏「『(慶長5年)8月21日付山村良勝・千村良重宛大久保長安書状』について」1 反家康の首謀者は三成・大谷吉継と認識

 白峰旬氏よりご恵贈賜りましたご論考「『(慶長5年)8月21日付山村良勝・千村良重宛大久保長安書状』について」(2020年発行『別府大学紀要』第61号所載)の中で、この書状の原文、現代語訳が紹介され、その内容が検討されています。
 まず「上方(=豊臣公儀方)の石田三成・大谷吉継・石川光吉(尾張国犬山城主)の書状を(山村良勝・千村良重の)御才覚により(奪い)取った。よって、(その書状を家康がいる)江戸へ進上した。(このことは)きっと御大慶であろう」と現代語訳されている部分について、次のように考察されています。
 石田三成・大谷吉継・石川光吉の書状は、「石田三成と大谷吉継から東北地方の諸大名に対して出された調略の密書であった、と考えられる」 
 「石田三成と大谷吉継と名指ししていることは、家康の近習出頭人である大久保長安が、8月21日(この書状の日付)の時点で、家康サイドの敵である豊臣公儀の反家康の首謀者(中核的人物)を石田三成と大谷吉継と認識していたことがわかり、その意味で、この記載は非常に重要である」
 「(原文の)『上方石治少・大刑・石備書状』について、『信濃史料』第18巻の頭注では『三成ヨリ景勝ヘノ密書』としているが、この史料の原文には、上杉景勝に対する書状とは記されていない」と。
 8月21日の時点では、むろん、家康弾劾状である「内府ちがひの条々」が家康方に届いており、家康を排除した新たな豊臣公儀が形成されたことを家康方は知っていたはずですが、あくまで敵の中心が三成や吉継と見なしていたことについて、いろいろなことが考えられます。家康が政権から排除されたことは、家康の敵が一方的に決めたことで、家康にとって認められないことであり、会津攻めはあらかじめ秀頼や政権の承認を得たことで、あくまで自分たちの方が豊臣公儀を代表していると思っていたのかもしれません。また、味方する武将たちに、上方の政変は三成や吉継が画策したことで、秀頼は関わっておらず、家康の公儀性が失われたわけではないことを、示す意味もあったのかもしれません。それは客観的には無理な論理だったと云えますが、そう思い込むことで、正当性を保とうとしていたとも考えられますし、味方にもそのことを強調していたのではないでしょうか。この論理は、関ヶ原の戦いの後も採用され、政変は三成らが首謀者とされて処刑されたものの、新たな政権の中心的な存在だった大老の毛利輝元は、所領は大幅に削られたものの、処刑されたり改易されたりすることはありませんでした。奉行の前田玄以は本領を安堵されましたし、増田長盛は改易されたものの、命は助けられています。

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 3

なるほど(納得、参考になった、ヘー) なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた

この記事へのコメント