石田三成の実像2958 「『(慶長5年)8月21日付山村良勝・千村良重宛大久保長安書状』について」2 東美濃への侵攻

 白峰旬氏の論考「『(慶長5年)8月21日付山村良勝・千村良重宛大久保長安書状』について」(2020年発行『別府大学紀要』第61号所載)の中で、この書状の原文、現代語訳が紹介され、その内容が検討されていますが、その続きです。
 「5月中には遠山友政はそちら(=木曽谷)へ行く予定である」と現代語訳されている部分について、次のように指摘されています。
 「この書状の日付である8月21日から直近5日以内に遠山友政を木曽谷(信濃国)へ遣わす、としている。これは加勢として遣わす、という意味であろうが、遠山友政(苗木遠山氏)は元苗木城主であったので、東美濃(=美濃国東部)への侵攻を視野に入れたものであろう」と。
 同書状によれば、加勢として遣わされたのは、遠山友政だけでなく、小笠原長巨、馬場昌次も同様であり、木曽谷を守護していた山村良勝・千村良重に書状を送ったのは東信濃へ侵攻させるためだったと白峰氏は指摘されています。
 当時、三成ら豊臣公儀軍は、大垣城と岐阜城を拠点にして、美濃方面の攻略を進めていましたし、両城を結ぶラインでの防御に努めていました。さらに、豊臣公儀軍は福島正則の居城である清須城を開城させて、尾張方面への進出も視野に入れていましたが、清須城側がそれに応じなかったので、うまくいきませんでした。一方、家康方は東美濃を押さえて、豊臣公儀軍と対抗しようと考えていました。しかし、8月23日、岐阜城が西上してきた家康方軍勢によって陥落してしまったために、豊臣公儀方の防衛ラインが崩れ、状況が大きく変わってきます。むろん、この書状が書かれた時点では、まだ状況は変わっていませんでしたが。
 次に書状の中で「会津方面のことは、伊達政宗が(上杉景勝の領国へ)攻め込み、(上杉景勝の領国内の)城2~3(箇所)を乗っ取ったので、(上杉)景勝はなすすべがなくなった、ということが(伊達政宗から家康へ)報告された」と現代語訳されている部分について、次のように指摘されています。
 「伊達政宗と上杉景勝の動向に関するものであり、伊達政宗が家康側に味方して戦っていることを伝えたものである」と。
 伊達政宗が上杉領に攻め込み、7月25日に白石城を開城させていますし、駒ヶ嶺城の桜田元親が、旧領だった川俣城を奪っています。もっとも、この後、家康は自分が上洛するにあたって、伊達政宗に対して会津攻めを止めるように命じていますから、上記の書状を出した時点では、上杉領侵攻は止められていました。しかし、大久保長安は味方が成果を上げていることを山村良勝・千村良重たちに強調しようとして、上記のような文面にしたのだと思われます。家康は8月22日に政宗にいわゆる百万石のお墨付を与えましたが、この意味合いについては佐藤貴治氏の「伊達政宗の戦い」で論述されていますので、後述します。

ブログ気持玉

クリックして気持ちを伝えよう!

ログインしてクリックすれば、自分のブログへのリンクが付きます。

→ログインへ

なるほど(納得、参考になった、ヘー)
驚いた
面白い
ナイス
ガッツ(がんばれ!)
かわいい

気持玉数 : 1

驚いた

この記事へのコメント