石田三成の実像2957 白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」24 本間宏氏「上杉景勝の戦い」4 直江状をめぐって

白峰旬氏編著「関ヶ原大乱、本当の勝者」(朝日新書)の本間宏氏の「上杉景勝の戦い」の中で、慶長5年の会津攻めのきっかけとなったとされる.、いわゆる「直江状」の存在について、肯定的な見解が示され、次のように記されています。
 「相国寺の日記『鹿苑日録』をみる限り、西笑承兌と直江兼続との間で書状が交換されていたのは確実である。また、『直江状』の最古の写本の検討によって偽書説の論拠はおおむね否定され、『家康への挑戦状』と評される内容ではなかったことも指摘されている(白峰:2011a)」と。
 4月1日付で西笑承兌が直江兼続に宛てた書状について、本間氏の同書で「景勝の上洛の遅れ、神指原への新城建設、津川口の道や橋の構築、会津での武具の収集などに関する上方の噂が穏便でなく、内府(徳川家康)が不審に思っているため、一刻も早く上洛すべきであるとの内容であった」と記されています。
 この書状に対する返書が直江状ですが、通説とは違って、「家康への挑戦状」ではなかったことが白峰氏によって指摘されているわけです。直江状を見た家康が激怒したということについては、桐野作人氏が5月7日付の三奉行・三中老連署状の第2条の内容がその根拠として挙げられています。すなわち、「今度直江所行相届かざる儀、御立腹御尤もに存じ候」という一節であり、「『直江所行』が何なのか具体的に書かれていないが、家康が『御立腹』しているというのだから、これが直江状のことを指しているといえよう。長束たちは兼続が『田舎人』ゆえの『不調法』だからという理由で、家康に出馬の延期を訴えている」と。
 直江状が過激なものであったかどうかは、なお検討の余地がありますが、直江状に家康が立腹したというのはポーズであったという可能性もあります。前にも拙ブログで取り上げたことですが、水野伍貴氏の「徳川家康の戦い」の中で、「家康は、上杉氏の返答を待つことなく出陣の意向を表明していたのである」と指摘されています。そうであれば、家康による会津攻めは既定路線であり、直江状以前に戦いを始める意向であったことになります。
 本間氏の同書では、いわゆる「直江状」の趣旨とほぼ一致するのが、6月10日付の上杉景勝書状の内容だということが記されています。
 すなわち、「領内仕置等のため上洛を秋まで延期してほしいと奉行衆に回答したところ、再度の讒言により、上洛しなければ上杉征伐に踏み切ると脅迫されたことが記されている。このため、もともと叛心などないので、やむなく上洛する意思を固めたが、讒人を糾明してほしいとの要望が不問に付され、一方的に上洛期限まで指定されたため、これを拒否することを決断したとする」と。
 もっとも、直江状とこの景勝書状の内容が酷似していることは、すでに桐野氏によって指摘されています。

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