石田三成の実像2959 白峰旬氏「『戦功覚書』としての『本城惣右衛門覚書』(その1)ー本城惣右衛門は下級武士なのかー」13 大坂夏の陣で徳川方として加わる2  付記・関ヶ原の戦いにおける藤堂高虎の活躍

 白峰旬氏の「『戦功覚書』としての『本城惣右衛門覚書』(その1)ー本城惣右衛門は下級武士なのかー」(別府大学大学院紀要)の中で、本城惣右衛門が、大坂夏の陣の、慶長20年5月6日に行われた八尾・若江の戦いに、徳川方の藤堂高清の指揮下で戦ったことが記されていますが、この戦いの記述についての解説の続きです。
 「藤堂高清は大坂夏の陣の時に、上野城留守居であったにもかかわらず、無断で大坂夏の陣に出陣したため、戦後、軍令違反により、伊勢国三ヶ野(=現在の三重県津市白山町三ヶ野【みつがの】)に追放された。その後、元和5年(1619)に許されて上野城代(7000石)になった。この経緯を考慮すると、『惣右衛門覚書』に、藤堂高虎と藤堂高清の間に争いがあり仲が悪かった、と言うのは、上野城留守居を投げ出して高虎に無断で大坂夏の陣に出陣したことを指している、と考えられる。そのため、藤堂高清指揮下の本城惣右衛門は番指物(ばんさしもの)を渡してもらえず、隅取紙(すみとりがみ)を指物にした、ということになったのであろう。このことからは、合戦では指物は必要不可欠な必須アイテムであったことがわかる」と。
 戦いにおける指物の重要性が指摘されている点が光ります。藤堂高虎はいわゆる関ヶ原の戦い(白峰氏は主戦場は関ヶ原ではなく、山中の戦いであったという見解を示されています)で功績を挙げ、大幅加増になり、さらに慶長13年には伊勢の津城に加増転封されます。
 関ヶ原の戦いにおける藤堂高虎隊の働きについては、白峰氏の「新視点関ヶ原合戦」(平凡社)の第6章「『関ヶ原』で戦った藤堂高虎隊
と大谷吉継」の中で、「藤堂家覚書」及び藤堂家関連史料をもとに論じられています。その内容については以前も拙ブログで紹介しましたが、次のようにまとめられています。
 「『藤堂家覚書』の関ヶ原合戦(本戦)に関する記載内容から、9月15日早朝に、家康方の藤堂高虎と石田方の大谷吉継が戦ったことが明確になった。そして、家康家臣の村越兵庫の討死の記載から、9月15日早朝に、徳川本隊も関ヶ原で大谷吉継隊と戦ったことがわかる。
 また、『藤堂姓諸家等家譜集』など藤堂家の関係史料により、藤堂玄蕃の討死の状況から考えると、藤堂高虎はその後、山中へ転戦して、石田三成と戦ったということがわかる」と。
 9月15日の戦いは、まず早朝に関ヶ原表に布陣していた大谷吉継隊が、家康方軍勢と石田方を裏切った小早川秀秋に挟撃されて壊滅し、その後、家康方軍勢が山中に布陣する石田方の主力部隊に攻めかかり、2時間程で石田方を敗走させたというのが、白峰氏の見解ですが、これらの史料もそのことを裏付けているわけです。
 これらのことから、藤堂家の関ヶ原の戦いにおける活躍は大きく、家康も大幅加増せざるをえませんでした。

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